恋はもっと、すぐそばに
第7章 心の扉をノックする人
金曜日の夕方十八時十五分、美咲はいつもの電車のホームに立っていた。この一週間の出来事が胸の中で複雑に絡み合っている。編集長の「もっと軽やかに」という指示、同僚たちの冷たい視線、吉田先輩の「女性は可愛げが大事」という言葉。
それでも田中の励ましと、あの人との出会いが、美咲の心に小さな希望を灯し続けていた。
電車が滑り込んでくる。七両目のドアが開いた瞬間、美咲の心がきゅっと鳴った。そこに彼がいた。この前と同じ位置に座って、経済誌を読んでいる。
今度は自分から話しかけてみよう。そう決意していたのに、いざその瞬間が来ると足がすくんでしまう。でも田中の言葉が背中を押してくれた。「君らしさを諦める必要はない」。
美咲は深く息を吸い込み、彼の隣の席に向かった。
「あ、また会いましたね」
彼は顔を上げて、驚いたような、でも嬉しそうな表情を浮かべた。
「ああ、こんにちは。覚えていてくださったんですね」
「はい。前回のお話、とても印象深くて」美咲は座りながら答えた。「あの後、いろいろ考えさせられました」
彼の目が優しく輝いた。「どんなことを考えられましたか?」
美咲は少し躊躇した。でも、せっかくの機会だ。本当の自分を出してみよう。
「社会的な期待と、個人の本当の欲求について……です」
彼は経済誌を膝の上に置いて、美咲の方に体を向けた。「具体的には?」
「私は雑誌の編集をしているんですが」美咲は慎重に言葉を選んだ。「読者が求めているもの、会社が求めているもの、そして自分が本当に書きたいもの……この三つがなかなか一致しなくて」
彼の表情が真剣になった。「それは難しい問題ですね。具体的にはどんな記事を書きたいと思われているんですか?」
美咲の心が少し軽くなった。彼は真剣に聞いてくれている。批判するのではなく、理解しようとしてくれている。
「女性の生き方について、もっと深く考察した記事を書きたいんです」美咲の声に少しずつ熱がこもってきた。「表面的な恋愛テクニックではなく、現代女性が直面している心理的な課題とか、社会的な期待との向き合い方とか……」
「それは素晴らしいテーマだと思います」彼は即座に答えた。「でも、周りからの反応は良くないんですか?」
美咲は苦笑いを浮かべた。「『硬すぎる』『女性らしくない』『読者が求めていない』……そんなことばかり言われます」
「それは……」彼は少し憤りを含んだ表情を見せた。「誰がそんな枠組みを決めたというんでしょうか」
美咲は彼の反応に驚いた。自分の悩みを、こんなにもストレートに理解してくれる人がいるなんて。
「でも、現実問題として……」美咲は続けた。「私の上司も先輩も、みんなそう言うんです。『女性は可愛げが大事』『知性は程々に』って」
彼の眉間に深いしわが寄った。「それは完全に間違った考えです」
美咲の鼓動が速まった。こんなにもはっきりと自分の考えを肯定してくれる人がいるなんて。
「本当にそう思いますか?」美咲の声が少し震えた。
「もちろんです」彼は力強く答えた。「知性は性別に関係なく、人間としての最も美しい資質の一つです。それを隠す必要なんてまったくありません」
美咲の目に涙がにじんできた。長い間、心の奥に押し込めていた想いを、初めて理解してもらえたような気がした。
「でも……」美咲は声を震わせながら続けた。「周りの人たちは、そんな私を受け入れてくれないんです」
彼は美咲の表情を見つめて、温かい声で答えた。「それは周りの人たちの問題であって、あなたの問題ではありません」
その言葉に、美咲の心の奥で何かが崩れ落ちるような感覚があった。今まで自分が悪いのだと思い続けてきた。自分が間違っているから、みんなに受け入れられないのだと。
「実は僕も、似たような体験をしているんです」彼は少し表情を曇らせた。「僕は大学で研究をしているんですが、最近は実用性ばかりが求められて、純粋に真理を追求することが軽視される傾向にあります」
美咲の目が輝いた。「それで孤独を感じることが……」
「はい。理解されない孤独を抱えています」彼は静かに頷いた。「だから、あなたのお話がとても共感できるんです」
二人の間に、深い理解の空気が流れた。美咲は初めて、本当に分かり合える人に出会えたような気がしていた。
「私たち、似てるんですね」美咲は小さく微笑んだ。
「ええ。でも、それは悪いことではありません」彼も微笑み返した。
電車は次の駅に向かって走り続けている。車窓に流れる夕暮れの景色が、二人の会話に温かい背景を提供していた。
美咲は深く息を吸った。今度こそ、自分の最も深い恐怖を言葉にする時が来た。
「あの……」美咲の声が小さくなった。「本当の自分を出すのが、すごく怖いんです」
彼は静かに頷いた。美咲の言葉を待っている。
「知的な自分を出したら、みんなに嫌われるって思ってしまって」美咲の手が膝の上で震えている。「女性として魅力的じゃないって思われるのが、一番怖くて……」
その瞬間、美咲は自分の心の奥底に眠る最大の恐怖と向き合っていた。女性らしくない自分は愛されない、という深い恐れ。
「あなたの知性と深い思考は、隠すべき恥ずかしいものではありません」彼の声がさらに優しくなった。「それはあなたの最も美しい部分なんです」
美咲は涙をこらえきれなくなった。でも、それは悲しい涙ではなかった。長い間否定し続けてきた自分の一部を、初めて肯定してもらえた安堵の涙だった。
「私……こんなに理解してもらえると思わなくて」美咲は小さくつぶやいた。
「僕も、こんなに深く物事を考える方に出会えるなんて思いませんでした」彼は微笑んだ。
電車のアナウンスが響いた。次が彼の降車駅だ。この深い対話が終わってしまう寂しさと、でも何かが確実に変わったという実感が、美咲の胸に同時に宿っていた。
立ち上がろうとした彼を見て、美咲は勇気を振り絞った。
「あの……お名前を教えていただけませんか?」
彼は驚いたような、でも嬉しそうな表情を浮かべた。
「川瀬拓也です。あなたは?」
「橘美咲です」美咲の頬に薄い紅がさした。「拓也さん……ありがとうございました」
「美咲さん」拓也は名前を呼んでから、温かい笑顔を見せた。「こちらこそ、素晴らしい時間をありがとうございました」
ドアが開き、拓也は振り返りながら言った。
「また、お会いできることを願っています、美咲さん」
電車が動き出すまで、美咲は拓也の姿を見つめていた。初めて名前で呼ばれた瞬間の温かさが、まだ胸の奥で余韻を残している。
それでも田中の励ましと、あの人との出会いが、美咲の心に小さな希望を灯し続けていた。
電車が滑り込んでくる。七両目のドアが開いた瞬間、美咲の心がきゅっと鳴った。そこに彼がいた。この前と同じ位置に座って、経済誌を読んでいる。
今度は自分から話しかけてみよう。そう決意していたのに、いざその瞬間が来ると足がすくんでしまう。でも田中の言葉が背中を押してくれた。「君らしさを諦める必要はない」。
美咲は深く息を吸い込み、彼の隣の席に向かった。
「あ、また会いましたね」
彼は顔を上げて、驚いたような、でも嬉しそうな表情を浮かべた。
「ああ、こんにちは。覚えていてくださったんですね」
「はい。前回のお話、とても印象深くて」美咲は座りながら答えた。「あの後、いろいろ考えさせられました」
彼の目が優しく輝いた。「どんなことを考えられましたか?」
美咲は少し躊躇した。でも、せっかくの機会だ。本当の自分を出してみよう。
「社会的な期待と、個人の本当の欲求について……です」
彼は経済誌を膝の上に置いて、美咲の方に体を向けた。「具体的には?」
「私は雑誌の編集をしているんですが」美咲は慎重に言葉を選んだ。「読者が求めているもの、会社が求めているもの、そして自分が本当に書きたいもの……この三つがなかなか一致しなくて」
彼の表情が真剣になった。「それは難しい問題ですね。具体的にはどんな記事を書きたいと思われているんですか?」
美咲の心が少し軽くなった。彼は真剣に聞いてくれている。批判するのではなく、理解しようとしてくれている。
「女性の生き方について、もっと深く考察した記事を書きたいんです」美咲の声に少しずつ熱がこもってきた。「表面的な恋愛テクニックではなく、現代女性が直面している心理的な課題とか、社会的な期待との向き合い方とか……」
「それは素晴らしいテーマだと思います」彼は即座に答えた。「でも、周りからの反応は良くないんですか?」
美咲は苦笑いを浮かべた。「『硬すぎる』『女性らしくない』『読者が求めていない』……そんなことばかり言われます」
「それは……」彼は少し憤りを含んだ表情を見せた。「誰がそんな枠組みを決めたというんでしょうか」
美咲は彼の反応に驚いた。自分の悩みを、こんなにもストレートに理解してくれる人がいるなんて。
「でも、現実問題として……」美咲は続けた。「私の上司も先輩も、みんなそう言うんです。『女性は可愛げが大事』『知性は程々に』って」
彼の眉間に深いしわが寄った。「それは完全に間違った考えです」
美咲の鼓動が速まった。こんなにもはっきりと自分の考えを肯定してくれる人がいるなんて。
「本当にそう思いますか?」美咲の声が少し震えた。
「もちろんです」彼は力強く答えた。「知性は性別に関係なく、人間としての最も美しい資質の一つです。それを隠す必要なんてまったくありません」
美咲の目に涙がにじんできた。長い間、心の奥に押し込めていた想いを、初めて理解してもらえたような気がした。
「でも……」美咲は声を震わせながら続けた。「周りの人たちは、そんな私を受け入れてくれないんです」
彼は美咲の表情を見つめて、温かい声で答えた。「それは周りの人たちの問題であって、あなたの問題ではありません」
その言葉に、美咲の心の奥で何かが崩れ落ちるような感覚があった。今まで自分が悪いのだと思い続けてきた。自分が間違っているから、みんなに受け入れられないのだと。
「実は僕も、似たような体験をしているんです」彼は少し表情を曇らせた。「僕は大学で研究をしているんですが、最近は実用性ばかりが求められて、純粋に真理を追求することが軽視される傾向にあります」
美咲の目が輝いた。「それで孤独を感じることが……」
「はい。理解されない孤独を抱えています」彼は静かに頷いた。「だから、あなたのお話がとても共感できるんです」
二人の間に、深い理解の空気が流れた。美咲は初めて、本当に分かり合える人に出会えたような気がしていた。
「私たち、似てるんですね」美咲は小さく微笑んだ。
「ええ。でも、それは悪いことではありません」彼も微笑み返した。
電車は次の駅に向かって走り続けている。車窓に流れる夕暮れの景色が、二人の会話に温かい背景を提供していた。
美咲は深く息を吸った。今度こそ、自分の最も深い恐怖を言葉にする時が来た。
「あの……」美咲の声が小さくなった。「本当の自分を出すのが、すごく怖いんです」
彼は静かに頷いた。美咲の言葉を待っている。
「知的な自分を出したら、みんなに嫌われるって思ってしまって」美咲の手が膝の上で震えている。「女性として魅力的じゃないって思われるのが、一番怖くて……」
その瞬間、美咲は自分の心の奥底に眠る最大の恐怖と向き合っていた。女性らしくない自分は愛されない、という深い恐れ。
「あなたの知性と深い思考は、隠すべき恥ずかしいものではありません」彼の声がさらに優しくなった。「それはあなたの最も美しい部分なんです」
美咲は涙をこらえきれなくなった。でも、それは悲しい涙ではなかった。長い間否定し続けてきた自分の一部を、初めて肯定してもらえた安堵の涙だった。
「私……こんなに理解してもらえると思わなくて」美咲は小さくつぶやいた。
「僕も、こんなに深く物事を考える方に出会えるなんて思いませんでした」彼は微笑んだ。
電車のアナウンスが響いた。次が彼の降車駅だ。この深い対話が終わってしまう寂しさと、でも何かが確実に変わったという実感が、美咲の胸に同時に宿っていた。
立ち上がろうとした彼を見て、美咲は勇気を振り絞った。
「あの……お名前を教えていただけませんか?」
彼は驚いたような、でも嬉しそうな表情を浮かべた。
「川瀬拓也です。あなたは?」
「橘美咲です」美咲の頬に薄い紅がさした。「拓也さん……ありがとうございました」
「美咲さん」拓也は名前を呼んでから、温かい笑顔を見せた。「こちらこそ、素晴らしい時間をありがとうございました」
ドアが開き、拓也は振り返りながら言った。
「また、お会いできることを願っています、美咲さん」
電車が動き出すまで、美咲は拓也の姿を見つめていた。初めて名前で呼ばれた瞬間の温かさが、まだ胸の奥で余韻を残している。