春の女神は夜明けに咲う(わらう)

第一章 孤独は人を喰らうか

 師匠の家で家事手伝いも行っていた男は、彼女の夕餉の調理にも積極的に参加しようとした――が、「お客人にそんなことさせるわけには行きません」と調理場から出されてしまった。

 そうなると、手持ち無沙汰になってしまい、じっと待つのも居た堪れなくなっていく。
 先程裏で薪を見かけたのを思い出したので、ランプを借用して黄昏の淡い光の下、しんと凪いだ空気を裂いて鉈を振り下ろし、乾いた音を響かせるのだった。

「お待ちどお様です。ああ、すみません、そんなことまでしていただいて」
「とんでもないです、一方的に夕餉だけいただくわけにもいきませんから」
「ありがとうございます、大変助かります。ではこちらへどうぞ」

 彼女に促されて、男は夕餉の香ばしい匂いの立ち込める広い部屋へと通された。
 御膳に乗った雑穀のない真っ白な米に具沢山の味噌汁、焼いた鰆に漬物が添えられ、男の目にはなかなかに豪華な夕餉だった。

「有り合わせのものですみません」
「とんでもございません!むしろこんな豪華なお食事、恐れ多いくらいです。いただきます!」

 男は献立を見た瞬間こそ躊躇したが、昨日から何も食べてないこともあり、ぱんと柏手を打って頭を深々と下げると、いそいそと箸に手を伸ばして口に運んだ。

「これは美味い!いくらでも入ってしまいそうです」
「お口にあったようでなによりです」

 彼女はほっこりとした笑顔を浮かべながら、矢継ぎ早に箸を伸ばす彼のことを眺めていた。



 ある程度食べて腹が落ち着いてきた頃、男の中に何とも言えない罪悪感と共にある疑念が生まれてくる。

――さすがに都合よくことが運びすぎではなかろうか?

 偶々来た先で、あんな衝撃的な出会し方をしたにも関わらず食事に誘われて、暖までとらせてもらって――昼間に意気消沈していたことがまるで嘘のようにこの女の気概に当てられてしまっている。

 この後やはり泊めてもらう流れになるのだろうか?そうなると、まるでこれはあの御伽噺のような……そこまで考えて男は身震いをして、急いで残る夕餉を平らげた。このままだといけない気がする――男には直感的にそう思えた。

「寒かったですか?もう少し暖めましょうか」
「いえ、とんでもないです。ごちそうさまでした。あまり長居するわけにもいきませんので、私はこれにてお暇させていただこうかと――」

 心なしか早口で立ち上がり、荷物を手に持って足早へ玄関へと向かう。あまりの手際の良さに女はあっ、とだけ声を発してぱたぱたと男の後ろを追いかけるのだった。

 玄関をがらっと開けると、目の前には鬱蒼と生い茂った桃色と緑が入り混じった森が広がっていた。かろうじて道は見えるが、さすがにこの月明かりではこの丘から降りるのは危ない――男がそう判断するのに時間はかからなかった。

 いつの間にか後ろに立っていた女が、男の裾をきゅっと掴む。男はその感触に心臓が軽く跳ねてしまったが、彼女のほうを見るとまるで子犬のようなすがる目をしていて、思わず力が抜けてしまった。

「今晩はもう遅いです。この屋敷は見ての通り、広い分夜は不安なのです。むしろいてくださると助かります……どうか泊まっていってください」

 困ったような顔でそんなこと言われてしまい、男も「はい」と答えるしかなかった。



 湯浴みもどうぞと促され、男は最初はさすがの申し訳なさから一度断ってしまったが、彼女があまりにしゅんと悲しそうな顔をするので、「私が湯を沸かしますから、せめてあなたから先に入り、その後で私も入らせてもらえれば」と条件をつけて結局男自身も湯を頂戴することになった。

「薪を割っていただいた上にお湯まで沸かしていただくなんて、なんとお礼を申し上げればよいか……」

 湯殿の小窓から女が柔らかい声で、薪を焚べている男に話しかける。

「とんでもないです。湯加減はいかがですか?」
「とてもよいです。勝手が難しいかと思いましたが手際よく準備していただいて……もしかして、どこかのお屋敷にご奉公へ上がってらっしゃった方なのでしょうか?」

 そんな質問を投げかけられて一瞬戸惑ったが、彼女の柔らかい声に当てられて男はこれまでの経緯を全て話した。
 親と絶縁して上京してきたこと、師匠を仰ぎ門下に入るも、急逝によって結果的に破門となり、志半ばで路頭に迷っていたこと……。

 先程まで都合の良い出来事に戦々恐々としていたはずなのだが、なんとも現金だな自分は、と内心男は思った。

「大変だったのですね……心中お察しします」
「ありがとうございます。あの、ちなみにあなたはどうしてこの屋敷にお一人なのですか?」
「えっと……少し長くなるのですが、私はある商家の四女でして……」

 聞けば、その女は裕福な商家で生まれ育ったのだが、いつしか家族に邪険に扱われるようになり、やがてその存在すら隠すかのように人里離れた別荘であるこのお屋敷に単身で送られ、家族からはほぼ勘当された状態になってしまったとのことだった。
 収入はあるらしく生活には困っていないが、一年のほとんどをこの不必要に広い屋敷で人と接することなく過ごすので、とても心細く、久々の来客で自分のあられもない姿や性別なども気に留めずつい舞い上がってしまったとのこと。

「どうして家族はあなたを邪険にするのでしょう……。いや、家族の事情ですしあまり踏み込んではいけませんね、すみません」
「大丈夫ですよ。とはいえその――原因は実はわかっておりまして……」

 そこまで言いかけて女は気恥ずかしそうに口を噤んでしまった。

「無理に話さずとも大丈夫ですよ」
「いえ、なんといいますか。それはあなた様もご覧になられたこと――と、言いますか……」

 もごもごと歯切れの悪い言葉が続いたが、そこまで聞いて男はある光景を思い出した。最初の出会い頭に彼女が振り返った時、胸の前で揺れていたあの豊かな二つの膨らみのことを――。
 そこまで察した男は何か言いかけて口を開けるも、どうにも言葉が出てこない。女は話を続けた。

「お医者様曰く恐らくそういう病気なのだと思います。他の家族に同じような者はいませんでしたから。とはいえ、私は四姉妹の四女で、父も入婿。母が絶対的に権力を持った女系家族だったせいか、私はこれのせいでかなり蔑まれました」

 居た堪れない理由で男はさらに言葉を失ってしまい、「そうだったのですね」と当たり障りのない相槌を打つので精一杯だった。

「重くて動きづらいし、蔑まされて追いやられるし――私はこれが憎くてたまりません。なので先程はこんなお見苦しいものをお見せしてしまったので、本当に申し訳ない気持ちでいっぱいなのです」
「そんな、謝らないでください。全て私の不注意が原因ですし、なんとお詫びすればよいか……」

 いつの間にかまた謝罪合戦が始まってしまう。家族や使用人からも化け物だの奇乳だのと陰で呼ばれ続けていたらしく、聞いているだけで男は心苦しくなっていった。

「普段は強くサラシを巻いて慣らしているのですが、如何せん息苦しくて――時々ああして身包みを全て脱いで気分転換に水浴びをしているのです」

 なるほど、だからお召し物を着ている際はあまり目立たなかったのですね。と、男は喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。

「しかし、こんな山奥に娘が一人だなんて、不用心な気がしてならないのですが」
「もともとこの地は武家屋敷でして、母が買い取った後も“幽霊屋敷”のように誰も近づかないので、私だけ居たところで噂にもならなかったのです」
「そうは言っても……他に来客が訪れたり、それこそあなた自身がお出かけにはならないのですか?」
「来客といっても郵便屋さんくらいですから。まさか一人で住んでいるとは思ってもいないのだと思います。あとは――興味本位で近くに訪ねてきた者もおりましたが、みなこの屋敷の雰囲気に気味悪がって去ってしまうようでした。備蓄はありますし、少々の用事で出かけはしますが頻度も多くないので……」

 なんだか奇妙な巡り合わせだな、と男は思った。何故自分はこうして招待されて夕餉までいただいて湯まで沸かしているのだろうか。久々の来客に舞い上がっていたと言うが――。

「そんな中で、何故私に至ってはこのように招待していただけたのでしょう?」
「普段人と接しない分どなたかとお話したかった、というのが本音です。あとは、なんと言いますか――私の……を見てすぐに踵を返したあなた様は誠実そうな方だなと思って、ついお声掛けしてしまいました」

 誠実そう……そう言われて男はどきっとした。あなたの乳房を反芻してしまうただの助平ですよとは言えず、光栄です、とだけ呟いて応えてみせる。

「なので、こうしてお話させていただけて、私としてもとても嬉しいのです。ありがとうございます」
「とんでもないです、こちらこそありがとうございます。あんな衝撃的な出会し方だったのに、こんなに甲斐甲斐しく迎えてくださって」
「ああ……どうか先程のお見苦しい姿は忘れてくださいませ」
「見苦しいだなんて――そんなにご自分を卑下なさらないでください。とてもお綺麗だったと思います」

 そこまで言って男ははっとした。完全に口が滑った――あまりに自己評価の低い言葉に、思わず訂正してあげたい気持ちが募ってしまって、つい本音をそのまま溢してしまったのだ。
 女もその言葉にドキっとして、思わず「え?」と聞き返してしまう。

「あ、すみません、失言でした……。あまりご自分を責めて欲しくないばかりに。忘れてください」
「いえいえ、お気になさらず。お気遣いいただいてとても嬉しいです」

 湯の熱さなのか気恥ずかしさなのか、女の頬が心なしかさらに紅潮していった。
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