春の女神は夜明けに咲う(わらう)

第二章 凍てつく心に触れるものは

 交代で湯浴みを終え、男が部屋に戻ると、既に布団一式がそこに敷いてあった。
 気配に気づいた女が隣の部屋から襖を開けて声を掛ける。

「こちらでお休みください。私は隣の部屋におりますので……」

 そう言って静々と頭を下げる寝巻き姿の彼女を眺める。恭しくて可憐だな、と思いつつも、頭のどこかで意識してしまっていたのか、男の視線は、意図せずその膨らみに吸い寄せられてしまった。
 その胸元は平ら――ではなくサラシで巻かれていないそのままの膨らみがあった。
 その視線に女も気づいたのだろう。恥ずかしそうに頬を染めながら両腕でぱっとそれを隠してしまう。男も慌てて視線を逸らした。

「すみません、思わず視界に――」
「いえこちらこそ。昼間は慣らすため、と言いましたが、寝る時は息苦しくないように外してまして」

 照れながらも説明をしてくれる姿に、男は本当に素直な方なんだな、と思った。頬を染めながら指先で頬をぽりぽりとかき、やがてゆっくりと彼女に視線を落としながら口を開く。

「その、私は見苦しいとは思いません。ですからどうか、ご自分を責めないでください」

 そう言われて女はさらにかあっと頬を紅く染める。

「し、失礼しますっ!」

 表情を隠すように会釈すると、女はそのまま襖を開けて、ぴしゃりと隣の部屋へと逃げ込んでしまった。

 男の方はというと、一人俯いて敷かれた布団に突っ伏してしまった。自分の行いを反芻しているのか、月明かりだけの暗い部屋の中、時折脚をじたばたと振って、もがいてるかのようだった。ああ、とんでもないことを言ってしまった……。

 そのまましばらく過ごしていると急に眠気に襲われたので、いい加減寝てしまおうと布団に潜る。その瞬間、部屋の奥で鈍く響く、ある音に気づいた。

 ――ずずっ、ずずっ、ずずっ……。

 金属なのかなんなのか、とにかく何か硬いものが擦れるような微かな音が、規則的に何度も何度も響いていた。低く鳴り響く不気味な音に、男は夕餉の時に考えていた御伽噺を思い出す。

――山姥……。

 もしかしたらこれは包丁を研いでいる音かもしれない。既に火を落として辺りが暗闇になっているのも相まって、男は奇妙な恐怖心を煽られてしまう。
 しかし、さっきまでの女の言動や行動を鑑みるに、これから喰らってやろうという者の様子だったとも結びつきにくい。
 そんなことも眠気のある頭で思考を巡らせるも、一度湧いた恐怖心はなかなか払拭出来そうになかった。

 いっそ確かめてやろう、と意を決して襖にそろそろと近づき、戸を一寸程開けて女の姿を視界に捉えた。
 どうやら机に向かって何か施しているようだ。とりあえず包丁ではなさそうなので一先ず安心した――が、では一体何を行なっているのかまではなかなか判別ができなかった。
 一度安心したので気を大きくした男は、聞いてしまった方が早い、と判断して襖越しに声をかけることにした。

「あの、すみません」
「ひゃっ!な、なんでしょうか?」

 女は子栗鼠のようにビクッと跳ね上がると声の聞こえた方へと視線を送る。

「なんとなく何をなさっているのか気になってしまって……。開けてもよろしいですか?」
「は、はい。散らかっていますがどうぞ」

 それを聞いて、既に一寸開けていた襖を少々大袈裟にすっと開けてみせる。
 床一面に大量の原稿用紙や半紙が散らばった部屋――その奥の机に、困惑した表情の女がランプの小さな灯りに照らされ座していた。ふと見渡すと、壁には本がぎっしり詰まった本棚がずらっと並んでいる。

「これは一体?」
「言ってませんでしたね。私は小説を生業にしておりまして。夜な夜なこうして色んなことを書き留めたりしてお仕事をしているのです」

 へえ、と相槌を打ちながら、机の上に置かれた硯と筆に気づいた男は、ちらとそちらに視線を向ける。それに気づいた女は何かを察したように口を開いた。

「気分転換に、時々筆で書きたくなるんです。音、うるさかったですよね……すみません」

 なるほど、先程聞こえた何かが擦れる音は硯の音だったのだ。杞憂もいい所で、男は安堵すると共に、今までのあらぬ疑念を心の中で悔いた。

 小説家というのはピンキリの存在で、名を馳せて文豪と呼ばれる者もいれば、連載しながら副業をしてカツカツに生きている者もいた。女はちょうどその中間くらいであるとのこと。

「こんな遅くまで大変ですね」
「むしろこの時間の方が筆が乗ることが多いのです。すみません、起こしてしまって」
「大丈夫ですよ。というかそんなに謝らないでください。あなたの家なのですからどうか楽になさって。その方が私も気が楽です」
「すみませ――あ。き、恐縮です」

 また謝りかけてぱっと口元を抑える彼女を見て男はふふっと微笑んだ。

「どんなお話を書かれるのですか?」

 唐突な投げかけに女はぎょっとしてしまったが、考えてみれば自然な流れの問いである。気恥ずかしそうに目を泳がせて口を開いた。

「その、所謂恋愛小説です」
「へえ!いいですね。恋愛ってとても繊細なものですし、そんな物語を描けるなんて凄いと思います!」
「いやいや。昔、家の納屋にあった本でそんなお話ばかり読んでまして、その時憧れた物を記しているに過ぎません。こうして一人で住まわせてもらっているのも、静かに物語を書くのに集中できて、実は私にとって好都合なこともあるのです」
「そうだったのですね。てっきり嫌々ここに住んでいるのかもと思っていたのでそれを聞いて安心しました。にしても、この部屋にある本の数すごいですね――これは全部、今まで読んできた、あなたの歴史みたいなものなのですね」
「そんな大袈裟なものではないです。私の書く物なんて、これらのいい所を見様見真似でくっつけた塊みたいなものですから」
「それでしっかり収入を得ているのですから、大した物ですよ。素直に尊敬します」

 そんな、と女は頬を染めながら手をぶんぶんと顔の前で横に振って、必死に照れを誤魔化した。
 褒められ慣れていないのもあるが、目の前にいる彼に褒められたということ自体が、彼女にとって何故かとてもくすぐったいものだった。

「ところで、あなた様も絵を描かれるとのことでしたが、普段どんなものを描かれるのですか?」
「私は修行中の身でして、そんな大したものは……。一応風景画や人物画など、様々なものを描かせていただいてます」
「すごい、多彩に描かれているのですね!是非あなたの絵を見てみたいです」
「いやあ、まだ人に見せられる程のものじゃありませんから。それよりも、本職の小説家さんの書く物語の方が私は読んでみたいです」

 そう言って身を乗り出し、女が書いていたであろう原稿用紙を覗こうとする。

「あっ、ダメですこれは。まだ公に出されていませんし、話も纏まっていないので……」

 ばっと机に突っ伏すようにそれらを隠す。あまりの必死さが可愛く映り、男は微笑ましくなったが、少し意地悪もしてみたくなる。

「じゃあ公になってるのならいいのですね。きっと机の脇にあるこれがあなたのお話かな」
「それも恥ずかしいからダメです!こんな引き篭もりの書く恋愛小説なんてただの妄想にすぎません、目の毒です!」
「ということは……あなたの言う毒が世間の色んな人に蔓延しちゃってますね」
「うう……そんな意地の悪いこと仰らないでください……」

 泣き出しそうなその顔を見ながら、男はすみません冗談ですよ、と笑って見せた。その言葉に、女はへの字口を作り、そっぽを向いてむくれてしまう。

 彼女のそんな姿が、まるで気まぐれな猫のようで、一枚の絵に閉じ込めてしまいたい――そんな密かな愛おしさに駆られ、男は小さく首を横に振るのだった。
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