忘れたあなたと、知らないふりして
第一話
「カタン」
進路指導室のドアが閉まる音が、やけに大きく感じられた。
あー、もう最悪。足がふらふらして、廊下を歩くのもやっとだった。
「このままじゃ、本当にどの大学にも行けなくなっちゃうよ」
先生の言葉が頭の中でぐるぐる回ってる。分かってるよ、そんなこと。誰かに言われなくても、私が一番よく分かってるもん。
でも、どうしたらいいのか全然分からない。机に向かっても文字がただの記号にしか見えないし、参考書開いても厚すぎて嫌になっちゃう。時間だけがどんどん過ぎていって、私だけが置いてかれてる感じ。
はあ。今日も疲れた。
グラウンドからは楽しそうな声が聞こえてくる。みんなキラキラして見えるのに、どうして私だけこんなに灰色なんだろう。
比べちゃダメって分かってるのに、どうしても比べちゃう。そういう自分が嫌で嫌で仕方ない。
あの出来事から、私はこんな風になっちゃったのかな。三年前のあの日から、私の心に刺さったままの棘みたいなもの。それがじわじわと私を変えてしまった。
「ずるっ」
カバンの肩紐がまた下がってきた。重いったら。やっと家の前までたどり着いて、鍵をガチャガチャ回す。
「おかえり!」
お母さんの明るい声が飛んできた。その声だけで、ちょっとだけ心が軽くなる。
「ただいま……」
リビングに入ると、お母さんがテーブルを拭きながらにっこり笑ってた。その笑顔が眩しくて、目を細めちゃう。
「あなた、ちょうど良かったわ。ちょっと良い話があるの」
お母さんの弾んだ声。でも今の私には、良い話なんてあるのかな。
「良い話?」
「そう! あなたの成績のこと、ずっと心配だったでしょう? それで森田さんに相談したら、大学生の息子さんが家庭教師をやってくれるって」
「森田さんの……息子さん……?」
その瞬間、私の体から血の気がサーッと引いていった。手足の先がぞわぞわって冷たくなる。
「そう! タクミ君よ。あなたも知ってるでしょ、森田さんところの。昔から仲良しだったじゃない。週に三回来てもらえることになったから」
ガーン。
頭の中で雷が落ちたみたい。
森田タクミ君――。
三年前のあの日から一度も会ってない、私の幼馴染。
あの事故があってから、私たちの家族は森田家とちょっと距離を置くようになった。お母さんも森田さんとあまり話さなくなったし、私も森田さんの家の前を通る時はいつも小走りになっちゃう。
いつもなら「家庭教師なんて嫌だー」って反発するのに、今は言葉が出てこない。あまりの衝撃で頭がフリーズしちゃった。
「今日から来てもらうから、ちゃんと挨拶しなさいよ。タクミ君、事故で昔のことあまり覚えてないらしいけど、それでもあなたのこと気にかけてくれてたのよ」
今日から。
そして、彼は覚えていない。
知ってたはずなのに、改めて聞くと胸がズキンって痛んだ。
私のせいで、彼は記憶を失った。その彼が、私の家庭教師?
これって、何かの罰ゲーム? それとも運命の悪戯?
◇
午後七時ちょうど。
リビングの電子音がピピッと鳴った瞬間、玄関のチャイムも鳴った。
来た。
お母さんに促されて、私はゆらゆらしながら玄関に向かう。まるで水の中を歩いてるみたい。
ドアノブに手をかけて、数秒間動けなくなった。記憶のない彼は、私をどんな目で見るんだろう。私は、どんな顔をすればいいの?
意を決して、ドアを開けた。
そこに立っていたのは、一人の青年だった。
あ……。
世界がスローモーションになった。周りの音がふっと消えて、彼の姿だけがくっきり見える。
すらっとした長身。白いシャツにベージュのチノパン。短く整えた黒髪。細いフレームの眼鏡の奥の、静かな瞳。
ちょっと大人っぽくなったけど、間違えるはずがない。紛れもなく、彼だった。
「こんばんは。桜井さんのお宅でよろしいでしょうか」
丁寧で、ちょっと硬い口調。昔より声が低くなってる。でも確かに彼の声だった。
彼の表情には、私を見て何かを思い出そうとするような気配なんて全然ない。完全によそよそしい。
「家庭教師として参りました、森田です」
そう言って、ちょっと頭を下げた。
ああ、そうか。
本当に、忘れてるんだ。私のことなんて、全部。
その事実が、氷水をかぶったみたいに冷たかった。心のどこかで抱いてた「もしかしたら」っていう期待が、パリンって音を立てて砕け散った。
「……あ……はい……どうぞ」
喉がカラカラで、声がかすれちゃった。
彼を中に招き入れると、お母さんが「まあまあ、タクミ君!」って明るい声で迎えてくれた。
しっかりしなきゃ。ここで動揺しちゃダメ。初対面のふりをしなくちゃ。
お母さんとの挨拶が終わって、私は彼の後について自分の部屋に向かう。狭い廊下で彼の背中を見てると、胸がキューッて痛んだ。その背中が知らない人のもののように感じられて。
部屋に入って、「どうぞ」って椅子を勧める。
「失礼します」
彼は短く言って、私の学習机の椅子に座った。二人きりの部屋は、息が詰まりそうなくらい静か。彼の服から、ふわっと清潔な香りがした。
「えっと……」
沈黙を破ったのは、彼の方だった。彼はまっすぐ私を見て、ちょっと言いにくそうに口を開いた。
「授業を始める前に、一つだけ。母から聞いたんだけど、俺たち昔からの知り合いなんだってね。幼馴染だって。……ごめん、どうしても思い出せないんだ。三年前の事故で、昔の記憶がほとんどなくて」
私の体がガチガチに固まった。彼は一度言葉を切って、期待するような目で私を見た。
「それで、聞きたいんだけど……君は、俺のこと覚えてる?」
その問いが、私の胸をぎゅっと掴んだ。彼の真っ直ぐな瞳が、答えを求めてる。
覚えてる。覚えてるに決まってる。あなたと過ごした時間のすべてを、私は忘れたことなんてない。夕焼けの公園での他愛ない話も、二人だけの秘密基地を作った夏の日も、そして……あなたの記憶を奪ったのが私だってことも。
でも、言えるわけがない。
もし「はい、覚えてます」って答えたら? 彼の瞳はきっと嬉しそうに光って、次々と質問してくるよね。「どんな関係だった?」「何して遊んだ?」って。その先には必ず「あの日のこと」が待ってる。
真実を知られるのが怖かった。彼をこれ以上傷つけたくないっていう言い訳で、実は自分が傷つきたくないだけ。
私は彼の目から逃げるように視線を落として、用意してた一番卑怯で安全な嘘を口にした。
「……はい、一応。お名前は母から聞いてました」
彼の表情がほんの少し和らいだのが分かった。その変化に後押しされて、私は慌てて続けた。
「でも、その……小さい頃に何度か顔を合わせたことがある、っていうくらいで……。親同士が仲良かったみたいなんですけど、私たちはほとんど話した記憶もないかな。だから、覚えてなくても当然だと思います」
言っちゃった。
「ほとんど話した記憶もない」って一言で、私は彼との過去を無かったことにしちゃった。
彼がほっとしたように、でもちょっと寂しそうに微笑むのが見えた。
「そっか……。なんだ、そうだったのか。無理に思い出さなきゃって気負ってたから、安心したよ。教えてくれてありがとう」
彼は私の嘘を疑わずに受け入れてくれた。ホッとするべきなのに、胸にガラスの破片を飲み込んだみたいな痛みが広がった。
自分の手で、大切な思い出を否定しちゃった。彼の失われた記憶の扉に、私自身が鍵をかけちゃったんだ。
「では、始めようか。まずは、苦手な科目から教えてね」
彼は気持ちを切り替えるように言って、タブレットを取り出した。
偽りの家庭教師。
記憶を失った彼と、過去を偽る私。
私はノートの上で唇をぎゅっと噛みしめることしかできなかった。
進路指導室のドアが閉まる音が、やけに大きく感じられた。
あー、もう最悪。足がふらふらして、廊下を歩くのもやっとだった。
「このままじゃ、本当にどの大学にも行けなくなっちゃうよ」
先生の言葉が頭の中でぐるぐる回ってる。分かってるよ、そんなこと。誰かに言われなくても、私が一番よく分かってるもん。
でも、どうしたらいいのか全然分からない。机に向かっても文字がただの記号にしか見えないし、参考書開いても厚すぎて嫌になっちゃう。時間だけがどんどん過ぎていって、私だけが置いてかれてる感じ。
はあ。今日も疲れた。
グラウンドからは楽しそうな声が聞こえてくる。みんなキラキラして見えるのに、どうして私だけこんなに灰色なんだろう。
比べちゃダメって分かってるのに、どうしても比べちゃう。そういう自分が嫌で嫌で仕方ない。
あの出来事から、私はこんな風になっちゃったのかな。三年前のあの日から、私の心に刺さったままの棘みたいなもの。それがじわじわと私を変えてしまった。
「ずるっ」
カバンの肩紐がまた下がってきた。重いったら。やっと家の前までたどり着いて、鍵をガチャガチャ回す。
「おかえり!」
お母さんの明るい声が飛んできた。その声だけで、ちょっとだけ心が軽くなる。
「ただいま……」
リビングに入ると、お母さんがテーブルを拭きながらにっこり笑ってた。その笑顔が眩しくて、目を細めちゃう。
「あなた、ちょうど良かったわ。ちょっと良い話があるの」
お母さんの弾んだ声。でも今の私には、良い話なんてあるのかな。
「良い話?」
「そう! あなたの成績のこと、ずっと心配だったでしょう? それで森田さんに相談したら、大学生の息子さんが家庭教師をやってくれるって」
「森田さんの……息子さん……?」
その瞬間、私の体から血の気がサーッと引いていった。手足の先がぞわぞわって冷たくなる。
「そう! タクミ君よ。あなたも知ってるでしょ、森田さんところの。昔から仲良しだったじゃない。週に三回来てもらえることになったから」
ガーン。
頭の中で雷が落ちたみたい。
森田タクミ君――。
三年前のあの日から一度も会ってない、私の幼馴染。
あの事故があってから、私たちの家族は森田家とちょっと距離を置くようになった。お母さんも森田さんとあまり話さなくなったし、私も森田さんの家の前を通る時はいつも小走りになっちゃう。
いつもなら「家庭教師なんて嫌だー」って反発するのに、今は言葉が出てこない。あまりの衝撃で頭がフリーズしちゃった。
「今日から来てもらうから、ちゃんと挨拶しなさいよ。タクミ君、事故で昔のことあまり覚えてないらしいけど、それでもあなたのこと気にかけてくれてたのよ」
今日から。
そして、彼は覚えていない。
知ってたはずなのに、改めて聞くと胸がズキンって痛んだ。
私のせいで、彼は記憶を失った。その彼が、私の家庭教師?
これって、何かの罰ゲーム? それとも運命の悪戯?
◇
午後七時ちょうど。
リビングの電子音がピピッと鳴った瞬間、玄関のチャイムも鳴った。
来た。
お母さんに促されて、私はゆらゆらしながら玄関に向かう。まるで水の中を歩いてるみたい。
ドアノブに手をかけて、数秒間動けなくなった。記憶のない彼は、私をどんな目で見るんだろう。私は、どんな顔をすればいいの?
意を決して、ドアを開けた。
そこに立っていたのは、一人の青年だった。
あ……。
世界がスローモーションになった。周りの音がふっと消えて、彼の姿だけがくっきり見える。
すらっとした長身。白いシャツにベージュのチノパン。短く整えた黒髪。細いフレームの眼鏡の奥の、静かな瞳。
ちょっと大人っぽくなったけど、間違えるはずがない。紛れもなく、彼だった。
「こんばんは。桜井さんのお宅でよろしいでしょうか」
丁寧で、ちょっと硬い口調。昔より声が低くなってる。でも確かに彼の声だった。
彼の表情には、私を見て何かを思い出そうとするような気配なんて全然ない。完全によそよそしい。
「家庭教師として参りました、森田です」
そう言って、ちょっと頭を下げた。
ああ、そうか。
本当に、忘れてるんだ。私のことなんて、全部。
その事実が、氷水をかぶったみたいに冷たかった。心のどこかで抱いてた「もしかしたら」っていう期待が、パリンって音を立てて砕け散った。
「……あ……はい……どうぞ」
喉がカラカラで、声がかすれちゃった。
彼を中に招き入れると、お母さんが「まあまあ、タクミ君!」って明るい声で迎えてくれた。
しっかりしなきゃ。ここで動揺しちゃダメ。初対面のふりをしなくちゃ。
お母さんとの挨拶が終わって、私は彼の後について自分の部屋に向かう。狭い廊下で彼の背中を見てると、胸がキューッて痛んだ。その背中が知らない人のもののように感じられて。
部屋に入って、「どうぞ」って椅子を勧める。
「失礼します」
彼は短く言って、私の学習机の椅子に座った。二人きりの部屋は、息が詰まりそうなくらい静か。彼の服から、ふわっと清潔な香りがした。
「えっと……」
沈黙を破ったのは、彼の方だった。彼はまっすぐ私を見て、ちょっと言いにくそうに口を開いた。
「授業を始める前に、一つだけ。母から聞いたんだけど、俺たち昔からの知り合いなんだってね。幼馴染だって。……ごめん、どうしても思い出せないんだ。三年前の事故で、昔の記憶がほとんどなくて」
私の体がガチガチに固まった。彼は一度言葉を切って、期待するような目で私を見た。
「それで、聞きたいんだけど……君は、俺のこと覚えてる?」
その問いが、私の胸をぎゅっと掴んだ。彼の真っ直ぐな瞳が、答えを求めてる。
覚えてる。覚えてるに決まってる。あなたと過ごした時間のすべてを、私は忘れたことなんてない。夕焼けの公園での他愛ない話も、二人だけの秘密基地を作った夏の日も、そして……あなたの記憶を奪ったのが私だってことも。
でも、言えるわけがない。
もし「はい、覚えてます」って答えたら? 彼の瞳はきっと嬉しそうに光って、次々と質問してくるよね。「どんな関係だった?」「何して遊んだ?」って。その先には必ず「あの日のこと」が待ってる。
真実を知られるのが怖かった。彼をこれ以上傷つけたくないっていう言い訳で、実は自分が傷つきたくないだけ。
私は彼の目から逃げるように視線を落として、用意してた一番卑怯で安全な嘘を口にした。
「……はい、一応。お名前は母から聞いてました」
彼の表情がほんの少し和らいだのが分かった。その変化に後押しされて、私は慌てて続けた。
「でも、その……小さい頃に何度か顔を合わせたことがある、っていうくらいで……。親同士が仲良かったみたいなんですけど、私たちはほとんど話した記憶もないかな。だから、覚えてなくても当然だと思います」
言っちゃった。
「ほとんど話した記憶もない」って一言で、私は彼との過去を無かったことにしちゃった。
彼がほっとしたように、でもちょっと寂しそうに微笑むのが見えた。
「そっか……。なんだ、そうだったのか。無理に思い出さなきゃって気負ってたから、安心したよ。教えてくれてありがとう」
彼は私の嘘を疑わずに受け入れてくれた。ホッとするべきなのに、胸にガラスの破片を飲み込んだみたいな痛みが広がった。
自分の手で、大切な思い出を否定しちゃった。彼の失われた記憶の扉に、私自身が鍵をかけちゃったんだ。
「では、始めようか。まずは、苦手な科目から教えてね」
彼は気持ちを切り替えるように言って、タブレットを取り出した。
偽りの家庭教師。
記憶を失った彼と、過去を偽る私。
私はノートの上で唇をぎゅっと噛みしめることしかできなかった。