忘れたあなたと、知らないふりして

第二話

 あの日から今日までの時間は、なんだかフワフワした感じで過ぎてった。学校にいても、友達と話してても、頭の片隅にはいつも彼の横顔があった。

 記憶のない幼馴染が、私の家庭教師になった。

 その事実は飲み込むにはあまりにも大きすぎて、日常が日常じゃなくなっちゃった感じ。

 初対面のふりをすること。

 それが私の決めたたった一つのルール。そのルールを守るために、心の大部分に鍵をかけて、厚い扉で閉ざしてる気分だった。

 時刻ちょうどに、インターホンが鳴る。前回と同じピンポーンって音。でも今回は、あの時ほど体がガチガチにならなかった。ちょっとだけ慣れたのかも。

 玄関のドアを開けると、前回と変わらない清潔感のある服装の彼が立ってた。

「こんばんは」

「……こんばんは。どうぞ」

 当たり障りのない挨拶をして、彼を部屋に案内する。背中に彼の気配を感じながら歩くと、なんだか意識がそっちに集中しちゃう。

 今日の授業は英語の長文読解。教科書にびっしり並んだアルファベットを見てるだけで眠くなる。

「じゃあ、まずは一通り読んでみようか。分からない単語があっても今は気にしなくていいから」

 彼はそう言って、タブレットに何かを書き始めた。私は言われた通りにゆっくり英文を読む。案の定、半分も読まないうちに知らない単語だらけでお手上げ。

「……全然、分かりません」

 はあーってため息つきながら言うと、彼は「大丈夫」って穏やかに答えてくれた。

「長文は、まず全体の構造を掴むことが大事なんだ。この段落は何を言おうとしてるのか、次の段落とどう繋がってるのか。それを意識するだけで、だいぶ読みやすくなる」

 彼はタブレットの画面を私に見せた。そこには今読んでた長文が取り込まれて、いくつかの文にマーカーが引いてある。

「例えば、この文。これがこの段落の要点だ。で、次のこの文がその具体例。こういうふうに、文章には必ず流れがあるから」

 彼の説明はとても論理的で分かりやすかった。絡まった毛糸を一本ずつ丁寧にほどいてくれるみたいに、複雑に見えた英文の構造が少しずつ明らかになってく。

 彼の指がタブレットの上をスルスル動いて、重要な箇所に印をつけてく。その指先の動きを、私はぼーっと目で追ってた。

 昔、彼と一緒にゲームした時も、コントローラーを握る指はいつも正確で楽しそうに動いてたっけ。

 あ、ダメダメ。思い出しちゃダメ。今は、ただの生徒と先生なんだから。

 一時間くらい授業が進んだところで、彼が「少し休憩しようか」って提案した。私がこくりと頷くと、彼は椅子に座ったままぐーっと背筋を伸ばした。

「いやあ、それにしても教えるのって難しいな」

 ぽつりと、独り言みたいに彼が言った。

「え?」

「いや、こっちの話。君は飲み込みが早いから助かるよ」

「そんなこと……」

「本当だって。それに、なんて言うか……」

 彼は少し言葉を探すような間を置いて、続けた。

「慣れてるのかな、君と話すのって」

 彼の何気ない一言が、私の胸の奥にじんわりした波を作る。慣れてる、か。私にとって彼は初対面じゃないから当たり前なのに、そんなはずないって思いたい気持ちもある。

「そういえば、さっきの長文に出てきたけど」

 彼は教科書を指差した。

「主人公が言ってたセリフ、『そんなの、とても簡単だよ』って感じのやつ」

 いきなりの話で、私はきょとんとした。

「え……?」

「いや、『It's a piece of cake.』ってやつ。直訳すると『それはケーキ一切れ』だけど、実際の意味は『それは簡単だ』っていう慣用表現だろ?」

 彼はそう言って、いたずらっぽく笑った。

 『piece of cake』

 その言葉を聞いた瞬間、私の思考がピタッと止まった。それは中学時代、彼と私の間で流行ってた言い回しだったから。

 難しい問題が解けた時や、面倒な頼みごとをされた時に、ふざけて英語で言い合ってた、あの時の私たち二人だけの合言葉。

 どうして、それを。

 私の表情がちょっと固まったのを、彼は見逃さなかった。

「……あれ? どうかした?」

 彼は不思議そうに、私の顔をのぞき込んできた。その距離の近さに、私は反射的に体を後ろに引いちゃう。

「い、いえ……なんでもないです」

「そっか? なんか、変なこと言ったかな、俺」

 彼は納得いかないって感じで、こめかみを指で軽く掻いた。その動作も、昔と全然変わってない。私の知らないところで、彼は彼自身のまま時間を重ねてきたんだ。その当たり前のことが、なんだか無性に切なかった。

「……すみません、ちょっと驚いただけです」

「驚いた? 何に?」

「いえ、その……先生が、そういう冗談を言うんだなって」

 我ながら苦しい言い訳だと思った。でも、今の私にはそうとしか言えなかった。彼はますます分からないって顔をしたけど、それ以上は聞いてこなかった。ただ、二人の間にちょっとだけ気まずい空気が流れた。

 その沈黙を破ったのは、また彼の方だった。

「……あのさ」

 彼は、何かを言うのをためらうように、少し間を置いてから口を開いた。

「変なこと聞くようだけど……やっぱり、俺たちどこかで会ったことないかな」

 その質問が、私の胸にドーンって重く響いた。

「初対面のはずなのに、そう思えないんだ。君と話してると、なんて言うか……昔から知ってるような、不思議な感じがする」

 彼の言葉の一つ一つが、私の心の壁をトントン叩く。やめて。それ以上は言わないで。私の中で警報がピーピー鳴ってた。

「初めてこの部屋に入った時も、初めてじゃないような気がしたし……君の声も、なんだかすごく聞き覚えがあるような……」

 彼は自分の感覚を確かめるように、ゆっくり言葉を選びながら話した。その真剣な表情から、私は目をそらすことができない。彼の瞳の奥に、失われた記憶の断片がキラキラ揺らめいてるような気がして、体がぞくぞくって冷たくなった。

「……気の、せいじゃないでしょうか」

 やっとのことで絞り出した私の声は、プルプル揺れてた。

「私、人からよく、どこにでもいそうって言われるので。きっと、誰かと勘違いしてるんだと……思います」

 嘘。全部、嘘だ。心の中でもう一人の私が叫んでる。でも、本当のことなんて言えるはずがない。あなたが事故に遭ったのは、私のせいなんだなんて。

「……そっか。そうだよな、うん。ごめん、変なこと言って」

 彼は、自分を納得させるように何度か頷いた。その表情にはまだ戸惑いの色が残ってる。私は、ただ曖昧に微笑み返すことしかできなかった。ドキドキが止まらない。もし、このまま彼の記憶が戻っちゃったら? もし、全部思い出しちゃったら、私たちのこの関係はどうなっちゃうんだろう。



 残りの授業時間は、すごく長く感じられた。気まずい空気が部屋に充満してて、私は教科書の内容なんて全然頭に入ってこなかった。

 ようやく授業が終わるって時だった。彼が不意に「……っ」って短く息を詰めて、片手でこめかみを押さえた。

「先生? どうかしましたか?」

「あ、いや……なんでもない。ちょっと、頭が……」

 彼の顔色が明らかに悪くなってた。額にうっすら汗がにじんでる。

「時々、こうなるんだ。急に、頭痛がして」

 彼はそう言って、無理に笑ってみせた。でも、その笑顔はすごくぎこちなかった。

「大丈夫ですか? 薬とか……」

「うん、大丈夫。すぐに治まるから。心配かけてごめん」

 彼はそう言いながら、ゆっくり立ち上がった。その足取りが、ちょっとふらついてるように見えた。私は彼のそばに駆け寄って支えたい気持ちになったけど、そんなことをする資格なんて私にはない。ただ、心配そうに彼を見つめることしかできなかった。

 彼の記憶が、戻りかけてるのかな。

 だとしたら、この頭痛はその前触れかもしれない。

 その可能性を考えた瞬間、背中をぞくっと冷たいものが駆け上がった。彼を心配する気持ちと、真実を知られることへの恐怖。二つの感情が、私の中でぐちゃぐちゃになってる。

 彼が帰った後も、私はしばらく自分の部屋で立ち尽くしてた。机の上には、中途半端に開かれたままの英語の教科書。彼の苦しそうな表情が、目をつぶっても浮かんできて離れない。

 大丈夫かな。一人でちゃんと家に帰れたかな。

 心配で、じっとしてられなくなる。私は無意識にスマートフォンを手に取ってた。メッセージアプリを開いて、彼の名前を探す。メッセージ画面には、前回の事務的なやり取りが残ってるだけ。

 何か、送った方がいいかな。でも、なんて送ればいい?『体調は大丈夫ですか』なんて、踏み込みすぎかも。ただの生徒が、先生の体調をそこまで気にするのは変だよね。

 指が画面の上で何度もうろうろする。送りたい。でも、怖い。

 数分間迷った末に、私はやっと短い文章を打ち込んだ。

『今日はありがとうございました。頭痛、お大事にしてください』

 送信ボタンを押す指が重かった。送っちゃった、っていう事実がずしんと胸にのしかかる。すぐに既読がついたけど、彼からの返信はなかなか来なかった。その静寂の時間が、私をすごく不安にさせる。もしかして、余計なことしちゃったかな。

 五分くらい経っただろうか。不意に、スマートフォンの画面がパッと明るくなった。

『ありがとう。』

 だた、それだけ。

 そのそっけない返信を見た瞬間、私は自分がホッとしてることに気づいた。よかった。彼は私のメッセージを迷惑だと思わなかったんだ。そして、記憶もまだ戻ってない。

 その安堵と同時に、胸の奥がチクッと痛んだ。寂しいって言うには小さすぎるけど、確かな痛み。私たちは、こんなにも短い言葉しか交わすことができない。たくさんの思い出も、一緒に過ごした時間も、全部が一方通行で彼には届かない。

 それでいい。

 そう自分に言い聞かせながらも、私は画面に表示された、そのそっけないメッセージを、いつまでもじーっと見つめてた。
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