忘れたあなたと、知らないふりして

第四話

 彼が私の頭を撫でたあの夜から数日が過ぎた。髪に残ってたはずの感触はとっくに消えちゃったのに、私の思考はあの瞬間に囚われたまま。

 彼の言葉、彼の眼差し、彼の行動。その一つ一つが、私の日常のあらゆる場面でぽんぽん再生されては私の心をぐちゃぐちゃにかき回す。嬉しいのに、苦しい。その真逆の感情の振り子が大きく揺れるたびに、私は立ってることさえ困難になるような感覚に襲われた。

 そして、四回目の授業の日がやってきた。部屋のドアを開けて彼を迎え入れた瞬間から、私はまともに彼の顔を見ることができなかった。意識すればするほど、変な態度になっちゃう。机に向かい合って座っても心ここにあらずって状態で、教科書の内容は少しも頭に入ってこない。

「……じゃあ、この前の続きからやろうか」

 彼が静かに切り出す。今日の科目は数学。私にとっては、ただでさえ分からない数字と記号の世界。今の精神状態で、果たして理解できるかな。不安が胸をよぎるけど、私は「はい」って短く答えてノートを開いた。

 授業が始まって三十分くらい経った頃だろうか。私が一つの問題に手こずって、うんざりしながら数式を睨みつけてた、その時だった。

「……っ、う……」

 隣から、押し殺したようなうめき声が聞こえた。

 はっとして顔を上げる。彼は片手で強く目頭を押さえて、もう一方の手で机の縁をガッチリ掴んでた。

 その指は、血の気が引いて真っ白になってる。

「先生……?」

 私の呼びかけに、彼は答えない。

 ただ、ハアハア浅くて速い息を繰り返してる。その肩が小刻みにぷるぷる上下してるのが見えた。

 明らかに、ただの体調不良じゃない。前回見せた軽い頭痛とは比べ物にならないくらいの苦痛が、彼を襲ってるみたい。

「大丈夫ですか!? しっかりして……!」

 私は椅子から立ち上がって、彼の背中に手を伸ばしかけた。けれど、その指先が彼の体に触れる寸前で動きを止める。私に、彼に触れる資格なんてあるのかな。私のせいで、彼は今こうして苦しんでるのかもしれないのに。

「……あ……頭が……」

 彼が、途切れ途切れの声で言った。

「なにか……なにか、見える……」

 その言葉に、私の全身の空気が凍りついた。

 見える? 何が?

「……桜の、花びら……? たくさん、舞っていて……」

 桜。

 その単語を聞いた瞬間、私の思考回路がバチバチ焼き切れるような衝撃を受けた。三年前のあの日。事故が起きた日。時期は春で、彼と待ち合わせをしてた公園の桜は満開だった。

「……誰か、泣いてる……女の子の声……。それと……」

 彼は、必死に何かを思い出そうとするかのように固く目をつぶってる。額には脂汗が浮かんで、その表情は苦痛に満ちてる。

「……着信、音……。スマートフォンの……けたたましい、音が……」

 もう、間違いない。

 それは、すべて、あの日の光景だった。

 私が彼を呼び出した公園の桜。事故の瞬間、私が上げてた悲鳴。そして、私が彼に宛てて何度も送ったメッセージの着信通知。

 彼の失われた記憶の断片が、今、彼の頭の中で再生されてる。

 私の足元から、地面が崩れ落ちてくような感覚。立ってるのがやっと。部屋の空気が急に薄くなって、息の仕方を忘れちゃったみたい。彼の苦しむ姿を見てることしかできない。私の罪が、具体的な映像となって彼の記憶の扉をこじ開けようとしてる。その事実が、私をバンバン打ちのめした。

 やがて、長い時間に感じられた発作が少しずつ収まってった。彼の荒い息が、だんだん落ち着きを取り戻してく。彼はゆっくり顔を上げて、焦点の合わない目で空を見つめてた。

「……今のは、一体……」

 彼は、自分自身に問いかけるようにそう呟いた。その声はひどくかすれてる。

「先生……」

「……ああ、ごめん。もう、大丈夫だ」

 彼は私を安心させるように力なく笑ってみせた。けれど、その顔色は紙みたいに白い。彼は、混乱してた。自分の身に何が起きたのか、理解が追いついてないみたい。

「断片的な映像なんだ。脈絡のない、イメージの羅列……。でも、やけにリアルで……」

 彼はそう言って、自分のこめかみを指で探るように触れた。そして、不意に何かを期待するような目で私を見た。

「……もしかしたら、俺、記憶を取り戻せるのかもしれない」

 その言葉は、かすかな希望に縋るような雰囲気だった。彼にとっては、失われた過去を取り戻す唯一の手がかりなんだろう。

 けれど、その希望は、私にとっては絶望の宣告に等しかった。

 彼の記憶が戻る。それは、私の罪が白日の下に晒されることを意味してた。

「……今日は、もう、やめにしましょう」

 私は、かろうじてそれだけを口にした。

「ごめん、そうさせてもらうよ。迷惑かけて、本当に申し訳ない」

 彼は何度も私に謝りながら、ふらふらしながら立ち上がって荷物をまとめた。その一連の動作を、私はただ無感情に見つめてた。感情のすべてが麻痺しちゃったみたい。



 彼が帰った後、私は自分の部屋に一人立ち尽くしてた。窓の外は、いつの間にか夕暮れの色に染まり始めてる。部屋の中には、まだ彼の気配と、彼の苦しみの残りかすがまとわりついてるみたい。

 どうしよう。

 これから、どうなっちゃうんだろう。

 彼の記憶は、戻っちゃうのかな。もし、すべてを思い出しちゃったら、彼は私をどう思うだろう。軽蔑するかな。憎むかな。

 いくつもの問いが、答えのないまま私の頭の中をぐるぐる回る。

 気づいた時には、私は部屋を飛び出してた。誰かに言われるでもなく、何かに導かれるように足は自然とある場所へ向かってた。

 電車を乗り継いで、バスに揺られて、私はあの交差点の前に立ってた。

 三年前、彼が事故に遭った場所。

 何度も、夢に見た場所。

 三年の月日が流れても、風景はほとんど変わってなかった。車がビュンビュン行き交う、ごく普通の交差点。近くには、彼と待ち合わせをしてたあの公園がある。信号が青に変わるたびに、人々が足早に行き交って、車がうるさい音を立てて走り去ってく。

 私は、歩道橋の上からその光景をただぼーっと眺めてた。

 あの日の私は、この場所で彼が来るのを待ってた。彼に、自分の想いを伝えようと胸がドキドキ張り裂けそうなくらい緊張しながら。そして、約束の時間を過ぎても現れない彼に焦りと不安を募らせて、何度もメッセージを送った。

『大事な話がある』

 その一言が、すべての引き金だった。

 私のメッセージに気を取られた彼は、注意が散漫になってこの交差点に飛び出しちゃった。

 もし、あの時、私が彼を呼び出さなければ。

 もし、あの時、私がメッセージを送らなければ。

 後悔の念が、黒い泥みたいに私の心の中に溜まってく。どれだけ考えても、過去は変えられない。分かってるのに、思考は「もしも」っていう袋小路から抜け出せない。

 でも、と、もう一人の私がささやく。

 もし、事故がなかったら、私たちはどうなってただろう。私は彼に告白して、彼はその想いに応えてくれただろうか。それとも、気まずい関係になって疎遠になっちゃっただろうか。

 そして、彼が家庭教師として私の前に現れることもなかった。

 記憶を失った彼と過ごす、この変で、かけがえのない時間。彼の優しさに触れるたびに感じる温かい気持ち。彼の本質が変わってないと知った時のあの喜び。それらすべてが、私にとって何物にも代えがたい宝物になりつつあることも、また事実だった。

 失っちゃった過去を嘆く気持ちと、新しく生まれたこの関係を失いたくないと願う気持ち。その二つが、私の中で激しくせめぎ合う。

 私は、どうしたいんだろう。

 彼に、どうしてほしいんだろう。

 答えは、風に吹かれてどこかへ消えちゃった。



 家に帰り着いた頃には、あたりはすっかり暗くなってた。自分の部屋に戻って、電気もつけずにベッドの上にばたんと倒れ込む。体中が、ずっしり重たい。

 このままじゃ、ダメだ。

 このまま、感情の波に流されてちゃ私は壊れちゃう。

 私は、プルプル手でスマートフォンを手に取った。画面の明かりが、暗い部屋の中ですごく眩しい。いくつかのアイコンの中から、鳥のマークがついた日記用のアプリを起動する。誰にも見せることのない、私だけの秘密の場所。

 真っ白な入力画面を前に、私は指を滑らせた。

『今日、彼の記憶が、少しだけ戻りかけた』

 打ち込んでは、消す。また、打ち込んでは、消す。

 どんな言葉を選べば、このぐちゃぐちゃになった気持ちを正確に表せるんだろう。

 指先が止まる。

 結局、私は自分のことしか考えてない。彼のため、って言いながら、本当は自分が傷つきたくないだけ。

 その事実に吐き気がした。

 私は、スマートフォンの電源を落として、それをベッドの向こう側へぽいっと放り投げた。暗闇の中で、私は膝を抱えてただじっとうずくまる。

 答えは、どこにもなかった。

 ただ、彼の脳裏に浮かんだっていう、桜の花びらと泣き声と着信音のイメージだけが、私の意識の中にいつまでもべったりこびりついて離れなかった。
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