旦那様は公安刑事
第四章 夫婦の亀裂
翌朝、リビングの空気は張りつめていた。
いつもと同じように美緒は朝食を並べたけれど、テーブルに並んだ皿を前にしても会話は生まれない。
「……いただきます」
悠真の低い声。
それに続く美緒の「いただきます」は、かすれていた。
フォークと皿の小さな音だけが響く。
昨夜の出来事が互いの胸に残り、言葉を紡ぐ余裕を奪っていた。
「悠真……」
思い切って声を掛ける。
しかし彼は顔を上げずに「なんだ」とだけ返した。
そのぶっきらぼうな調子に、美緒の喉はひゅっと狭まる。
「……ううん、なんでもない」
そう言って視線を落とした瞬間、彼女の胸に冷たい波が広がった。
午後。美緒は買い物袋を下げて帰宅した。
玄関に靴はない。夫はすでに出勤していた。
テーブルに置かれていたのは、短いメモとコンビニのコーヒーの空きカップ。
《急な呼び出し。夕食いらない》
几帳面な文字。それなのに、美緒の胸には突き刺さるような無機質さが残る。
“刑事だから仕方ない”と自分に言い聞かせる。それでも、昨夜の会話が蘇る。
公安。
あの二文字が、夫婦の間に深い溝を作ってしまったように思えた。
週末。母の誕生日に合わせて実家へ帰った美緒は、自然と愚痴をこぼしていた。
「最近、なんだか……遠いの。前より話してくれなくなったっていうか」
母はしばし黙り、湯呑を口にしてから答えた。
「警察の仕事って、私たちが想像できないくらい大変なんだと思うわ。言えないことも多いんじゃないかしら」
「でも、それって……夫婦なのに?」
母は柔らかく微笑む。
「夫婦だからこそ、言えないこともあるのよ。信じるしかないこともね」
――信じる。
そう簡単にできるなら、こんなに苦しくはない。
夜。帰宅した美緒は、ソファに座る悠真を見て足を止めた。
スーツのまま、ネクタイを緩めた姿。
部屋の灯りもつけず、ただ暗闇に沈んでいる。
「……おかえり」
声をかけると、彼は一瞬こちらを見て「ただいま」と答えた。
その瞳には深い疲労が宿り、言葉を継ぐ余裕はなさそうだった。
「ねえ、悠真」
「なんだ」
「わたし……、あなたのこと、全然知らないんだなって思うの」
沈黙。
数秒ののち、彼は小さく吐き出すように言った。
「知らなくていい」
その一言が、胸を鋭く突いた。
守られているのか、突き放されているのか――答えは見つからない。
美緒は涙をこらえ、立ち上がる。
「もう寝るね」
背を向けた瞬間、後ろから伸ばされるはずの腕は、今夜はなかった。
静まり返った寝室で、布団を握りしめながら、美緒は初めて「孤独」という言葉をはっきりと感じた。
夫婦でありながら、心は並行線を辿る。
愛しているはずなのに、互いに触れられない壁が立ちはだかっていた。
――それが、嵐の前触れだとは、このときの美緒はまだ知らなかった。
いつもと同じように美緒は朝食を並べたけれど、テーブルに並んだ皿を前にしても会話は生まれない。
「……いただきます」
悠真の低い声。
それに続く美緒の「いただきます」は、かすれていた。
フォークと皿の小さな音だけが響く。
昨夜の出来事が互いの胸に残り、言葉を紡ぐ余裕を奪っていた。
「悠真……」
思い切って声を掛ける。
しかし彼は顔を上げずに「なんだ」とだけ返した。
そのぶっきらぼうな調子に、美緒の喉はひゅっと狭まる。
「……ううん、なんでもない」
そう言って視線を落とした瞬間、彼女の胸に冷たい波が広がった。
午後。美緒は買い物袋を下げて帰宅した。
玄関に靴はない。夫はすでに出勤していた。
テーブルに置かれていたのは、短いメモとコンビニのコーヒーの空きカップ。
《急な呼び出し。夕食いらない》
几帳面な文字。それなのに、美緒の胸には突き刺さるような無機質さが残る。
“刑事だから仕方ない”と自分に言い聞かせる。それでも、昨夜の会話が蘇る。
公安。
あの二文字が、夫婦の間に深い溝を作ってしまったように思えた。
週末。母の誕生日に合わせて実家へ帰った美緒は、自然と愚痴をこぼしていた。
「最近、なんだか……遠いの。前より話してくれなくなったっていうか」
母はしばし黙り、湯呑を口にしてから答えた。
「警察の仕事って、私たちが想像できないくらい大変なんだと思うわ。言えないことも多いんじゃないかしら」
「でも、それって……夫婦なのに?」
母は柔らかく微笑む。
「夫婦だからこそ、言えないこともあるのよ。信じるしかないこともね」
――信じる。
そう簡単にできるなら、こんなに苦しくはない。
夜。帰宅した美緒は、ソファに座る悠真を見て足を止めた。
スーツのまま、ネクタイを緩めた姿。
部屋の灯りもつけず、ただ暗闇に沈んでいる。
「……おかえり」
声をかけると、彼は一瞬こちらを見て「ただいま」と答えた。
その瞳には深い疲労が宿り、言葉を継ぐ余裕はなさそうだった。
「ねえ、悠真」
「なんだ」
「わたし……、あなたのこと、全然知らないんだなって思うの」
沈黙。
数秒ののち、彼は小さく吐き出すように言った。
「知らなくていい」
その一言が、胸を鋭く突いた。
守られているのか、突き放されているのか――答えは見つからない。
美緒は涙をこらえ、立ち上がる。
「もう寝るね」
背を向けた瞬間、後ろから伸ばされるはずの腕は、今夜はなかった。
静まり返った寝室で、布団を握りしめながら、美緒は初めて「孤独」という言葉をはっきりと感じた。
夫婦でありながら、心は並行線を辿る。
愛しているはずなのに、互いに触れられない壁が立ちはだかっていた。
――それが、嵐の前触れだとは、このときの美緒はまだ知らなかった。