失恋の痛みは後輩くんに奪われる

いつもと同じ朝のはずだった

 今日も、いつもと何ら変わらない朝が始まったはずだった。

 どんよりとした雲が立ち込める空を、ホームの屋根の隙間から見上げた。
 出かけに、折り畳み傘は間違いなくバッグに放り込んだ。雨に降られた時用の大きめのタオルも持っているし、万が一の時のストッキングは会社の引き出しに入っているから、問題ない。もっともパンプスの替えはないから、靴がびしょびしょになるほどの雨は遠慮してもらえたらありがたいけれど。
 今日も何の問題もなく過ごせるはず。
 沙織はそう言い聞かせて、大きく息を吸い込んだ。湿った都会の空気は美味しくない。何の感慨もなく、ホームに滑り込んでくる電車へと意識を戻した。

 会社までは乗り換え含めて、電車で三十分ちょっと。最寄駅には各停しか停まらないせいか、幸いなことに車内はさほど混雑していない。よほど運が良くないと座れないけれど、吊り革には余裕で捕まることができるし、文庫本はじゅうぶんに読める。都内に通勤する会社員のなかでは、比較的恵まれているほうだろう。

 電車に乗り込むと、沙織はポケットからスマートフォンを取り出した。通知は一件。アナザークエストというゲームから、体力が回復したよ、というお知らせだった。
 アナザークエスト――通称アナクエ――のアイコンを素早くタップすると、画面には鬱蒼とした森をバックに自由自在に動き回る箒のイラスト、そしてタイトルロゴが表示された。ロードする時間ももどかしく画面を連続でタップすると、少女漫画のヒーローのような華やかな見た目の男性キャラクターたちが現れる。装飾やフリルがふんだんに使われた衣服を纏っているのに違和感を感じさせないのは、キャラクターたちがキラキラと光り輝くように描かれているからだろう。実際何百回とみているはずのこの絵を見て、今日も沙織はぽつりと『顔が良い……』と内心呟いてしまうのだから。

 人気イラストレーターがキャラクターデザインとして関わっているらしく、登場人物は皆、美しい顔立ちをしている。いわゆる恋愛シミュレーションゲームだから、登場人物が格好良く描かれているのは、当たり前といえば当たり前だった。

 魔法使いになるために魔法学校に通う主人公の女性となって、一緒に学校に通う生徒である男性キャラクターと距離を縮めていくのが目的のゲームだ。
『授業』を受け、魔法使いとしてのスキルがアップすると、ストーリーが進む。攻略対象キャラクターとの仲も進展していくので、卒業と同時に恋人になることが目標だ。攻撃魔法なのか、回復魔法なのか、それとも魔法薬の作成なのか、肉弾戦なのか、主人公のどのスキルを伸ばすかによって、親しくなるキャラクターが変わる、という仕組みだ。
 大筋のストーリーの他に、季節ごとのイベントも頻繁に開催されている。イベントでは目標とされたイベント独自の授業である数値を達成しないと、限定のスチルが貰えないため、暇さえあればずっと授業を受けていることになる。といっても授業はオートプレイが可能なので、開始さえしてしまえばあとは勝手に繰り返される授業が終わるのを待つだけで良い。
 ただ授業を行うための体力は、時間経過とともに回復するので、特にイベント開催中などは頻繁にログインする必要があった。

 まず、出勤前のルーティーンである、レベル上げのための周回を終わらせるべく、授業を一緒に受けるキャラクター選択の画面を開いた。一日に何度もプレイしているから、目を閉じていても操作できる。迷いなく指を動かし、ずらりと並ぶキャラクターの中から、最推しであるエデルを選択した。

 柔らかいピンクがかった茶色い髪に、つぶらな瞳は少し垂れ目がちに描かれていて、見るからに癒し系担当だとわかる。授業中の音声はいつも同じだからわざわざ聞かないけれど、今は甘い声で「おはよう。今日も1日頑張ろうね」と言ってくれているはずだ。

 授業内容から適当にひとつ選んで決定を押す。あとは体力がゼロになるまで、自動で授業を行ってくれるのだ。デフォルメされたエデルが画面のなかを忙しなく動き回っている。教科書を読む姿やノートに何かを書きつける動きがいちいち全部可愛い。
 この時間に本でも読めばいいのに、沙織は結局ただただ画面を眺めてしまうのだった。

 沙織がアナクエを始めたのは半年ほど前だ。たまたま目にした広告に掲載されていた男性キャラクターが、エデルだった。まず美しいイラストに目を奪われた。特に、その柔らかく微笑んだ表情に。エデルは画面の中で甘い言葉を囁いていて、沙織は一気に心を掴まれた。

 それまでパズルゲームくらいしかプレイしたことがなかったのに、あっという間にハマってしまった。多分、心が弱っていたせいもあったのだと思う。ゲームに夢中になるだけではなく、キーホルダーやぬいぐるみなどのグッズまで集め出しているのだから、我ながら驚くべきハマりようだ。とても持ち歩く勇気は出ず、部屋に飾るのみだけれど。
 しかし20人以上いるキャラクターたちのバックボーンはどれも複雑で、ストーリーも読み応えがあった。なかでもエデルは、本来の魔法学校に入学する年齢よりだいぶ年上という設定だった。家庭の事情で当時は入学できなかったけれど、自分でお金を貯めて入学してきたという努力家なところも、沙織がエデルに夢中になった理由のひとつだった。


 ぼんやりと画面を眺めていると、いつの間に経験値が貯まったのか、レベルが上がった。沙織は慌ててバッグからイヤホンを取り出す。
 レベルが上がると、新しいスチルが解禁され、ボイス付きの台詞が自由に聞けるようになるのだ。ワイヤレスイヤホンが接続されたことを確認して、新たに獲得したスチルを開いた。

 表示されたタイトルは『頑張り屋の君へ』
 どきんと胸が鳴る。

 沙織の最推しキャラクターであるエデルが、目の前にいるであろう主人公(つまりプレイヤーである沙織自身なのだが)を心配そうに見上げているイラストだった。少しだけ眉根を寄せているのに、その表情すら美しい。
 イケメンの物憂げな顔って価値が高いよね……なんて思いながら音声再生ボタンをタップすると、キャラクターの音声が流れ始める。

「今日も最後まで残ってるの?」

 耳の奥に柔らかい声が流れ込んできた。

「俺も一緒に勉強して帰ろうかな。なんでって……一緒にいたいからに決まってるだろ」

 ほうっと小さく息を吐く。最後に少しだけ語尾が崩れるところが良い。それが距離の近さと甘さを感じさせる台詞だった。

 たったこれだけで、今日はいい日になるような気がするのだから自分でも単純だと思う。本当は残業中に聞いたら効果覿面だけれど、さすがに難しいので今のうちに何度も聞いておこうと再び画面をタップした。

 同じ音声を何度も聞き返していたせいで、授業以外のクエストを達成できないまま、乗り換えのターミナル駅に着いてしまった。

 一気に増えた人の流れに乗って、階段で隣のホームに移動する。待ち時間なくやってきた電車に乗り込んだ。ここから会社までは満員電車だ。ぎゅうぎゅうに押しつぶされながら、バッグを抱え込んた。
 混雑に加え、同僚に会う確率も上がるから、ゲームは乗り換えまで、と決めていた。イヤホンはそのままにして、適当な音楽を再生する。
 それでいて、頭の中ではエデルの台詞がリフレインしていた。

 よし、今日も頑張れる。
 沙織はそう自分を奮い立たせたのだった。
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