失恋の痛みは後輩くんに奪われる

知りたくない知らせ

「国代課長のところ、お子さん産まれたんですって。有志で何か贈ろうって話してるんですけど……。宮内さんもどうですか?」

 会社に着き、所属部署のオフィスに向かう途中で話しかけてきた後輩の顔を、まじまじと見つめてしまう。

 彼女の提案になんら不思議なところはない。なのに、黙り込んでしまったことに沙織は意味もなく慌ててしまった。
 ぎゅっと廊下のカーペットを踏み締めるように、足裏に力を入れる。
 そうでもしないと、そのまま倒れ込んでしまいそうだった。

「……そうなんだ。もちろん」
「ありがとうございます。沙織さんならそう言ってくれると思ってました。えっと大体ひとり3千円くらい出し合って、3万くらいのものをって考えてるんですけど」
「わかった。もし足りなかったら言って?その分出すし」
「すみません。でもたぶん十人以上集まりそうなんで、逆に少しお返しできるかもしれないです」
「そっか。了解」
「贈り物の候補出すので、また相談に乗ってください〜」

 そう言って去っていく後輩の姿を見送りながら、全身の力が抜けてゆくのを感じた。よろよろと壁に手をつく。了承の返事をするまでの不自然な空白を、後輩は何も思わなかったようで、それだけは安堵する。

 指先が冷たい。頭の中が真っ白になって、全身から血の気が引いているのがわかった。
 どくどくと打ち始めた胸を押さえる。そうでもしないと、このまま蹲ってしまいそうだった。

 ――そうか。産まれたのか。

 沙織はぼんやりと思った。
 社内の人間に、一斉に妊娠報告があってからだいぶ経つのだから、いつかは産まれるのだとわかっていたはずなのに、全然理解していなかった。
 産まれた事実を知った時に、自分がどうなるか、なんて。

 ショックを受けるのは、結婚すると告げられたときが最大で最後だと思っていたのに、そのあと何度も同じような衝撃に襲われるだなんて、予想もしていなかった。

 いや、吹っ切っていれば衝撃なんて受けないのだろう。つまり自分が全然立ち直っていないのだと突きつけられるようで、それもまた胸を刺されたような痛みが走る原因なのだった。
 始業まであと少し。気持ちを切り替えなければ、と沙織は自らに言い聞かせる。



 けれどそんな日に限って、会いたくない人に会わなければならなくなってしまうのだ。

 沙織は上司から指示されて作成したデータを元に、隣の営業部を覗いた。いなければいいのに、と願ってしまう自分に、またしても引き摺っている現実を突きつけられる。

 沙織が勤めるのは大手家具メーカーだ。その商品企画部に所属していて、主に新商品のプランニングやブランドストーリーを構築する担当だった。

 社内で大きな新企画が動き出す際には、部署を跨いでプロジェクトチームが結成されることがままあった。
 今回もそのメンバーに沙織と東堂が指名されていた。本格的なキックオフはまだ先だが、営業部の担当者に前もって渡しておく過去の資料をまとめたところだった。
 ただデータを渡すだけなのだから、東堂に行ってもらおうかと思った。でもそれも、なんだか意識していますと言うようで癪だった。

 だから沙織自ら営業課長のもとを訪ねることにしたわけだが。
 営業部に立ち入った瞬間、沙織はその決断を後悔した。

 営業部はいくつかの島に分かれているが、沙織が用のある第一営業部第二課は、部屋の中央にデスクが並んでいる。社員たちとは少し離れた壁際に一際大きなデスクがあり、そこが第二課長の居場所だ。

 その席の主――国代拓巳は、沙織の期待に反して、自らの席に姿勢よく座っていた。手元も見ずキーボードを叩く指は忙しないけれど、表情は温和だし、刺々しい雰囲気も感じさせない。素早く動く指先から、決してゆとりのある仕事に取り組んでいるわけではないようだ、と見て取れた。
 そんなことを感じ取ってしまうのも、沙織にとっては不本意だった。

 だが仕方ない。だって、ずっとこの姿を見ることを楽しみに過ごしていたのだから。今でもこの営業部にやってくれば自然と目で追ってしまうのは、もう身についた習慣みたいなものだ。
 沙織はそう言い聞かせて、一歩を踏み出した。
 真っ直ぐに国代の元へ向かう。

 あと数歩、という距離まで近づいたところで、不意に国代がパソコン画面から視線を上げた。まっすぐに目線がぶつかる。
 一瞬で、泣きそうになった。
 この人は、付き合っていた頃のように、自分から声をかける前に、私の存在に気づいてくれるのだ、と。馬鹿みたいにセンチメンタルな思考だ。

「お疲れさまです。今、よろしいでしょうか」

 呆気なく吹き飛んでしまいそうな自分を叱咤し、小さく目礼して沙織は切り出した。
 もちろん、と頷く国代の声がじんわりと耳を打つ。それだけで、かすかに息を呑んでしまった。

「ありがとうございます。ご依頼のあった来月からのプロジェクトに関する資料をお持ちしました。企画開発部にあった過去のデータをまとめたものです」

 そう言って、プリントアウトした資料を差し出す。

「データはサーバーに上げておきますので」
「メールでも貰っていい?」

 沙織の必要以上に平坦な声での報告を遮るように、国代が口を挟んだ。
「あ、はい。承知しました」
「ごめんね。こっちでもアサインするメンバーに直接渡したいから」

 すぐにフォローするように、少しだけ困ったような色を含んだ声で続ける。国代の手を煩わせないような形で送ってほしいのだろう、と沙織は理解する。

「いえ。どちらでも問題ありませんので」
「ありがとう。助かる」

 国代はそう言って、少しだけ首を傾けた。

 色素の薄い髪が揺れる。柔らかくて、クセがつきやすいと嘆いていたその髪は、付き合っていたときとは違って、毛先を遊ばせるようにセットされている。今の方が仕事の出来るビジネスマン風ではあるけれど、沙織は少しだけ気の抜けた、以前の髪型の方が好きだった。
 仕事に関しては冷淡な印象を与える人だから、そのくらいの隙があるほうが、馴染みやすいと思ったのだ。
 実際、沙織が思い切って国代に仕事の相談ができたのも、ぴょこんと跳ねた寝癖を発見したからだった。

 でも、今の国代には、そんな隙は一切感じられなかった。
 沙織の手から国代の手へと資料が移動していく瞬間、とっさに手を離すのを躊躇ってしまった。たかだか紙の束を手渡すくらい、なんてことのないはずなのに。
 息が苦しい。上手く息継ぎができない。沙織は大きくお辞儀をすると、そのまま一目散に営業部を後にした。

 飛び込んだ地下のトイレの洗面台に手をつく。肩で大きく息をした。鏡に映った自分はひどく青白い顔をしていた。
 情けない。沙織はこめかみを抑えた。

 こんなことで動揺するつもりじゃなかった。これから先、同じプロジェクトメンバーになるのだ。もちろん国代は自分の部下をメインに据えるだろうけれど、打ち合わせでは何度も顔を合わせるはず。そのたびにこんなに動揺していたら話にならない。
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