失恋の痛みは後輩くんに奪われる
まさか、ね
今年の春、社長令嬢が妊娠していることが報告された。それもすでに安定期に入ったから、という理由付きで。
沙織はそれから、考えるのをやめた。
いつから二人は結婚を前提に付き合っていたのか、なんて。そんなこと知りたくなかった。それを知ったら、今度こそ壊れてしまう。
ギリギリのところで堪えているダムが決壊して、もう本当に立ち直れなくなる予感がした。
だから沙織は忘れようとした。もしも、なんて想像することをやめる。
そう言い聞かせて、それまで頑なに断っていた合コンにも行ったし、すすめられたマッチングアプリに登録もしてみた。何人かの新しい男性と出会ったし、その中で決して感触の悪くないひともいた。でも、どうしても一歩が踏み出せない。
それは新たに出会った男性に原因があるわけではなく、また傷つくことが怖いからだった。国代と別れてから、傷ついてもいいと思えるほど好きになるひとには出会わなかったし、そもそも傷つく可能性を自分から排除していくようになった。
そんな沙織が夢中になったのが、アナクエだった。難しい操作は必要なく、頻繁にログインして、授業と呼ばれるオートプレイをまわしておけば、レベルという名の親密度も上がっていき、いくらでも甘い言葉を囁いてくれる。
エデルはヒロインより五つ年上、魔法学校に通う学生としては年嵩だが、家族のために一流の魔法使いになりたいと入学してきた努力のひとだった。
年上ということもあり、温和で誰に対しても物腰が柔らかい。困っているヒロインにいつも手を差し伸べてくれる。それでいて魔法使いへの思い入れは強く、ストイックなところがあった。
淡い色の髪をしたそのキャラクターは、どうしても印象が国代に似ていて。
ゲームの中にまで、未だに彼を引きずっている自分が滑稽だった。
それでも一人でいると塞ぎ込んでしまう時間がつらくて、沙織は手頃なゲームに没頭していった。
まさかそれを、自ら東堂に暴露することになるとは思っていなかったけれど。
自分でも下手なごまかしだと思ったから、東堂は気にも止めていないと思っていた。
けれど――。
沙織と東堂の席は隣同士だ。かれこれ2年、毎日この距離で仕事をしているけれど、プライベートな話はほとんどしたことがない。
元々沙織も私情を職場に持ち込まないようにしていたけれど、東堂はそれ以上だった。時折げっそりした顔でデスクに戻ってくることもあったので、女子社員たちから熱烈なアタックを受けているのかもしれない。
国代が結婚してから、その頻度が高まったような気もする。
まだ東堂が研修中だったころ、客先へ向かう途中「東堂くんって、あんまり自分のこと話したくない人?」と訊ねれば、彼はすみません、と頭を下げた。
「別に謝ることないよ。ただ嫌な話題とかあるのかなと思って」
「自分の話をするのは、あまり好きじゃないかもしれないです。こういうことを言うのもちょっと……苦手なんですが。聞き耳を立てられているかもしれない、と思うと落ち着かなくて」
昔、話の流れで好きだと言ったお菓子を、翌日から毎日毎日お裾分けと言って学校中の女性生徒から渡されたことがあるらしい。そのお菓子の差し入れは一ヶ月以上にも及び、大っぴらにお裾分けするわけにもいかず、毎日頭を抱えていたそうだ。
「自意識過剰かなって思うんですけど」
「いやそんなことないと思うよ。……モテるひとって大変なんだね」
「……何より同棲の友人からなかなか理解してもらえないことがつらいですね。自慢か?とか言われてしまって。そんなつもりはないんですけど」
「まあ……モテたいってみんな思うことだろうから、そういう悩みは自慢してるって思われちゃうのかもね」
「好きなひとにモテなきゃなんの意味もないですけどね」
そう言い切る横顔がやけに真剣で、沙織は思わず息を呑んでいた。
「なので、余計な諍いのもとはな無いほうがいいなって」
「どちらかと言うと、同性の友だちと気まずくなりたくないんだ?」
東堂が少しだけ目を見開く。
「正直に言えば。女性になんと思われるかは、どうでも良いです」
きっぱりとそう言う東堂に、沙織は苦笑いを浮かべた。
「でも国代課長みたいに、相手がいるってオープンにすればあんまり騒がれることもなくなりますかね?」
その言葉に、思わず顔が引き攣った。なんとか冷静を装う。
「あーどうだろう。あちらは結婚だから、さすがに他の女性は手出しできないよね。恋人とかでも効果あるのかな」
迫ってくる人も多少は減るかもしれない。恋人がいるとわかって告白してくる女性なんて、自分に相当自信があるひとだけだろう。
「あーでも恋人が相当素敵なひとじゃないと、効果がないかもね。ああこの人には敵わないって思うひとじゃなかったら、余計に寄ってくる女性が増えそう」
「なるほど……。まあ好きなひとに誤解されたら嫌なんで、恋人がいる、なんて嘘でも言えませんけどね」
「え……?」
さらりと付け加えられたひと言に、顔を上げる。
「東堂くん、好きなひといるんだね」
「ええ、いますよ」
東堂は動じることなく頷いた。
「え、なんかびっくり」
「なんで宮内さんが驚くんですか?」
「いや私なんか教えてもらえると思わなかったから……」
ごにょごにょと呟くと、東堂は少しだけ口角を上げた。
「それとも、宮内さんが恋人のふりしてくれます?」
不意の言葉に、沙織がきょとんと首を傾げる番だった。
「いやいや、誤解されたくないんでしょう」
「ま、そうですね」
そう言って東堂は肩をすくめた。
「でもまあ、だからあんまりプライベートな話はしたくないんです。こういう出先だったらいいんですけど」
そう付け加えられたものの、そんな事情を聞いて無闇に東堂の話を根掘り葉掘り聞く気持ちにもなれず、結果、沙織と東堂は隣同士の席だというのに、ほとんど雑談は交わさぬまま毎日を過ごしていた。
あまりに残業が続いたとき、がらんとしたオフィスでどうでも良い話をするくらいだ。
「お腹すいた。もう無理!」
沙織がキーボードから手を離して吐き捨てると、隣から冷静な声がかかる。
「コンビニ飯で休憩するのと、仕事を終えてから美味しいもの食べるの、宮内さんはどっちがいいです?」
「コンビニでお菓子買うっていう選択肢はないの?」
「お菓子でいいなら買ってきますけど。本当に?」
「いや……いらないです……」
「ですよね」
「終わったら美味しいものを思いっきり食べる!」
「はい。そうしてください」
やりとりの間も、東堂の目はパソコンから一切離れることはない。それでいて、沙織の考えを見透かしたような冷静な返しをしてくる。
沙織が大きく伸びをして、再び意識を集中させようとしたその時だった。ころん、と目の前に銀色の小さな包みが転がってくる。
「引き出しに入ってたものですけど、どうぞ」
「え、いいの……?」
「チョコは脳の疲労回復にいいから常備しておいたらって助言してくれたの、宮内さんですよ」
それは確かに、入社当時の東堂に沙織が言った言葉だった。
社内会議でやり込められた東堂に、「切り替えてこ」と言って、デスクの中のチョコレートをあげた記憶が蘇ってくる。励ますにしてももう少し良いものをあげればよかった、と家に帰って後悔した。そんなひと言を覚えているなんて。
「ありがと」
沙織は素直に銀の包みを受け取り、チョコレートを口に放り込んだ。
舌先に感じる甘味が、脳をすっきりさせてくれる気がした。
沙織はそれから、考えるのをやめた。
いつから二人は結婚を前提に付き合っていたのか、なんて。そんなこと知りたくなかった。それを知ったら、今度こそ壊れてしまう。
ギリギリのところで堪えているダムが決壊して、もう本当に立ち直れなくなる予感がした。
だから沙織は忘れようとした。もしも、なんて想像することをやめる。
そう言い聞かせて、それまで頑なに断っていた合コンにも行ったし、すすめられたマッチングアプリに登録もしてみた。何人かの新しい男性と出会ったし、その中で決して感触の悪くないひともいた。でも、どうしても一歩が踏み出せない。
それは新たに出会った男性に原因があるわけではなく、また傷つくことが怖いからだった。国代と別れてから、傷ついてもいいと思えるほど好きになるひとには出会わなかったし、そもそも傷つく可能性を自分から排除していくようになった。
そんな沙織が夢中になったのが、アナクエだった。難しい操作は必要なく、頻繁にログインして、授業と呼ばれるオートプレイをまわしておけば、レベルという名の親密度も上がっていき、いくらでも甘い言葉を囁いてくれる。
エデルはヒロインより五つ年上、魔法学校に通う学生としては年嵩だが、家族のために一流の魔法使いになりたいと入学してきた努力のひとだった。
年上ということもあり、温和で誰に対しても物腰が柔らかい。困っているヒロインにいつも手を差し伸べてくれる。それでいて魔法使いへの思い入れは強く、ストイックなところがあった。
淡い色の髪をしたそのキャラクターは、どうしても印象が国代に似ていて。
ゲームの中にまで、未だに彼を引きずっている自分が滑稽だった。
それでも一人でいると塞ぎ込んでしまう時間がつらくて、沙織は手頃なゲームに没頭していった。
まさかそれを、自ら東堂に暴露することになるとは思っていなかったけれど。
自分でも下手なごまかしだと思ったから、東堂は気にも止めていないと思っていた。
けれど――。
沙織と東堂の席は隣同士だ。かれこれ2年、毎日この距離で仕事をしているけれど、プライベートな話はほとんどしたことがない。
元々沙織も私情を職場に持ち込まないようにしていたけれど、東堂はそれ以上だった。時折げっそりした顔でデスクに戻ってくることもあったので、女子社員たちから熱烈なアタックを受けているのかもしれない。
国代が結婚してから、その頻度が高まったような気もする。
まだ東堂が研修中だったころ、客先へ向かう途中「東堂くんって、あんまり自分のこと話したくない人?」と訊ねれば、彼はすみません、と頭を下げた。
「別に謝ることないよ。ただ嫌な話題とかあるのかなと思って」
「自分の話をするのは、あまり好きじゃないかもしれないです。こういうことを言うのもちょっと……苦手なんですが。聞き耳を立てられているかもしれない、と思うと落ち着かなくて」
昔、話の流れで好きだと言ったお菓子を、翌日から毎日毎日お裾分けと言って学校中の女性生徒から渡されたことがあるらしい。そのお菓子の差し入れは一ヶ月以上にも及び、大っぴらにお裾分けするわけにもいかず、毎日頭を抱えていたそうだ。
「自意識過剰かなって思うんですけど」
「いやそんなことないと思うよ。……モテるひとって大変なんだね」
「……何より同棲の友人からなかなか理解してもらえないことがつらいですね。自慢か?とか言われてしまって。そんなつもりはないんですけど」
「まあ……モテたいってみんな思うことだろうから、そういう悩みは自慢してるって思われちゃうのかもね」
「好きなひとにモテなきゃなんの意味もないですけどね」
そう言い切る横顔がやけに真剣で、沙織は思わず息を呑んでいた。
「なので、余計な諍いのもとはな無いほうがいいなって」
「どちらかと言うと、同性の友だちと気まずくなりたくないんだ?」
東堂が少しだけ目を見開く。
「正直に言えば。女性になんと思われるかは、どうでも良いです」
きっぱりとそう言う東堂に、沙織は苦笑いを浮かべた。
「でも国代課長みたいに、相手がいるってオープンにすればあんまり騒がれることもなくなりますかね?」
その言葉に、思わず顔が引き攣った。なんとか冷静を装う。
「あーどうだろう。あちらは結婚だから、さすがに他の女性は手出しできないよね。恋人とかでも効果あるのかな」
迫ってくる人も多少は減るかもしれない。恋人がいるとわかって告白してくる女性なんて、自分に相当自信があるひとだけだろう。
「あーでも恋人が相当素敵なひとじゃないと、効果がないかもね。ああこの人には敵わないって思うひとじゃなかったら、余計に寄ってくる女性が増えそう」
「なるほど……。まあ好きなひとに誤解されたら嫌なんで、恋人がいる、なんて嘘でも言えませんけどね」
「え……?」
さらりと付け加えられたひと言に、顔を上げる。
「東堂くん、好きなひといるんだね」
「ええ、いますよ」
東堂は動じることなく頷いた。
「え、なんかびっくり」
「なんで宮内さんが驚くんですか?」
「いや私なんか教えてもらえると思わなかったから……」
ごにょごにょと呟くと、東堂は少しだけ口角を上げた。
「それとも、宮内さんが恋人のふりしてくれます?」
不意の言葉に、沙織がきょとんと首を傾げる番だった。
「いやいや、誤解されたくないんでしょう」
「ま、そうですね」
そう言って東堂は肩をすくめた。
「でもまあ、だからあんまりプライベートな話はしたくないんです。こういう出先だったらいいんですけど」
そう付け加えられたものの、そんな事情を聞いて無闇に東堂の話を根掘り葉掘り聞く気持ちにもなれず、結果、沙織と東堂は隣同士の席だというのに、ほとんど雑談は交わさぬまま毎日を過ごしていた。
あまりに残業が続いたとき、がらんとしたオフィスでどうでも良い話をするくらいだ。
「お腹すいた。もう無理!」
沙織がキーボードから手を離して吐き捨てると、隣から冷静な声がかかる。
「コンビニ飯で休憩するのと、仕事を終えてから美味しいもの食べるの、宮内さんはどっちがいいです?」
「コンビニでお菓子買うっていう選択肢はないの?」
「お菓子でいいなら買ってきますけど。本当に?」
「いや……いらないです……」
「ですよね」
「終わったら美味しいものを思いっきり食べる!」
「はい。そうしてください」
やりとりの間も、東堂の目はパソコンから一切離れることはない。それでいて、沙織の考えを見透かしたような冷静な返しをしてくる。
沙織が大きく伸びをして、再び意識を集中させようとしたその時だった。ころん、と目の前に銀色の小さな包みが転がってくる。
「引き出しに入ってたものですけど、どうぞ」
「え、いいの……?」
「チョコは脳の疲労回復にいいから常備しておいたらって助言してくれたの、宮内さんですよ」
それは確かに、入社当時の東堂に沙織が言った言葉だった。
社内会議でやり込められた東堂に、「切り替えてこ」と言って、デスクの中のチョコレートをあげた記憶が蘇ってくる。励ますにしてももう少し良いものをあげればよかった、と家に帰って後悔した。そんなひと言を覚えているなんて。
「ありがと」
沙織は素直に銀の包みを受け取り、チョコレートを口に放り込んだ。
舌先に感じる甘味が、脳をすっきりさせてくれる気がした。