冷徹御曹司は誤解を愛に変えるまで離さない

第一章 苦手な幼馴染と噂

 その人は、昔から苦手だった。

 ──一ノ瀬 颯真。

 父の会社と長年の取引がある一ノ瀬グループの御曹司で、私・橘 美玲とは同い年。
 幼稚園の送り迎えも、小学校の入学式も、なぜか一緒だった。
 なのに彼はいつも無口で、表情ひとつ変えず、私の話にも「そうか」や「別に」と短く返すだけ。
 幼い私にとって、その態度は冷たくて、近寄りがたかった。

 中学二年の時、決定的な出来事があった。
 放課後、校門の前で彼が一人の女性と並んで歩いていた。
 颯真より少し年上で、品のある大人びた笑みを浮かべていたその人に、彼はふっと柔らかい表情を見せたのだ。
 あの瞬間を見てしまった私の胸に、何かひどく嫌な感情が広がった。
 ──ああ、この人が彼の特別なんだ。私なんか、ただの顔見知りでしかないんだ。

 それから数年後、社交界では「一ノ瀬家の跡取りには想いを寄せる女性がいる」という噂が、まるで真実のように囁かれていた。
 名前は出ないけれど、私はすぐにあの時の女性の姿を思い出した。
 以来、私は必要最低限の挨拶しかせず、彼とは距離を置くようになった。

 ──そして今。

 私は父の会社で秘書として働き、颯真は一ノ瀬グループの副社長として辣腕を振るっている。
 業務で関わる時も、彼の態度は昔と変わらない。
 無表情、低い声、必要なことだけを淡々と告げる。

「──それで、この案件は明日までにまとめられるのか?」

 会議室で突然振られ、私は資料を抱えたまま背筋を正す。

「はい……大丈夫です」

「ならいい」

 短く言い切られ、視線を外される。
 そのやり取りはほんの数秒なのに、私は息を詰めてしまう。
 昔から変わらない、距離を感じさせる空気。
 周囲の人には「颯真さんってクールでかっこいいよね」と評判だけれど、私にとっては──ただただ怖い人。

 会議が終わると、同僚の真理子が近づいてきた。

「ねえ美玲、本当なの? 一ノ瀬副社長、もうすぐ結婚するって噂」

「……噂?」

「だってさ、彼、本命の女性がいるって前から言われてたじゃない。そろそろ正式にって話よ。相手は社外の人らしいけど」

 私は胸の奥がきゅっと締め付けられるのを感じた。
 やっぱり……。
 あの時から何も変わってないんだ。
 私なんか、彼にとっては仕事上の“関係者”でしかない。

 だから、数日後。
 父から突然告げられた言葉は、理解するのに時間がかかった。

「美玲、一ノ瀬さんとの婚約が決まった」

「……え?」

 頭の中が真っ白になる。
 だって、彼には本命がいるはずじゃ……?
 政略結婚──。それしか理由は考えられなかった。
< 1 / 19 >

この作品をシェア

pagetop