二つの航路

第一章 冷たい人、のはずだった

成田空港第1ターミナル。
 朝の出発ラッシュで慌ただしく人が行き交う中、キャビンアテンダントの佐伯美桜は、制服のジャケットの裾を整え、スカーフを結び直した。
 鏡代わりにガラス越しの巨大な機体を見やる。白く滑らかな胴体は、朝日に照らされて柔らかく光っていた。
 今日から新しいフライトチームでの勤務。行き先はロサンゼルス。長距離国際線だ。

 美桜はこの便の乗務を何度も経験しているが、今回はメンバーがほとんど入れ替わっていた。
 新しいチームはいつも緊張する。加えて、今朝のブリーフィングで初めて名前を聞くパイロットの存在が、さらに胸をざわつかせていた。

「佐伯さん、こちら新しいキャプテンの東條遼機長です」

 チーフパーサーの紹介に合わせて、美桜は深くお辞儀をした。
 振り向いた先に立つ男性は、想像していた以上に整った顔立ちをしていた。
 制服の肩章は機長を示す4本線。長身で、無駄な動きが一切ない。鋭い切れ長の目は、初対面の者を射抜くように静かで、少し冷たい印象を与える。

「佐伯美桜です。本日からよろしくお願いします」

「……よろしく」

 短い、簡潔すぎる返事。
 その声音には感情がほとんど乗っていないように感じられた。
 ――やっぱり、噂どおりの人だ。

 遼は社内でも“冷徹なエースパイロット”として知られている。完璧な操縦技術と冷静沈着な判断力で信頼される一方、人付き合いは最小限。笑顔を見せることも少ない。
 美桜はその評判を聞くたび、なんとなく「私とは合わなさそう」と思っていた。
 第一印象は、予想を裏切らない。

 ブリーフィングが始まる。
 遼は淡々と天候情報、飛行時間、経路の確認を進める。
 無駄な雑談は一切ない。視線が一度もこちらに向かないことに、妙な居心地の悪さを覚えた。

 ――嫌われてる、のかな。いや、ただの性格?

 美桜は胸の奥に小さな棘を感じながらも、業務に集中するために意識を切り替えた。

     

 離陸後、機体は順調に高度を上げ、巡航に入った。
 朝の光が窓から差し込み、客室は落ち着いた雰囲気に包まれる。
 美桜は飲み物サービスの準備を進めていた。慣れた手つきでカートを押しながら通路を進んでいると、ビジネスクラス前方で突然コールボタンが点滅した。

「失礼します。どうされましたか?」

 座席の男性が苦しそうに胸を押さえていた。顔色が悪く、呼吸が浅い。
 美桜の背筋が一気に冷える。

「お客様、大丈夫ですか?」

 返事はない。脈を取ると弱く、乱れていた。酸素が必要だと判断し、ギャレーへ駆け戻ろうとした瞬間――

「下がって」

 背後から低く落ち着いた声が響いた。
 振り返ると、遼が立っていた。操縦席から客室に出てくるのは珍しい。
 彼は無駄のない動きで男性の意識を確認し、すぐに指示を飛ばす。

「酸素ボンベを持ってきて。あと、機内アナウンスで医療関係者を呼んで」

「はい!」

 美桜は酸素ボンベを取りに走り、戻ると遼はすでに男性の姿勢を安定させていた。
 呼び出しに応じた医師が到着し、処置を引き継ぐ。数分後、男性の呼吸は少しずつ落ち着いた。

「……助かりました。本当にありがとう」

 男性のかすれた声に、美桜はほっと息をついた。
 その時、遼がこちらをちらりと見た。

「落ち着いて動けていた。いい判断だった」

「……ありがとうございます」

 褒められるとは思っていなかった。
 声は相変わらず抑揚が少ないのに、不思議と胸の奥が温かくなる。
 ――冷たい人、のはずなのに。

     

 その後も、美桜はふとした場面で遼の“微妙な優しさ”を目にした。
 通路で眠る子どもの毛布を、誰にも気づかれないようにそっと掛け直す。
 気流の影響で機体が揺れたとき、不安そうな顔をした乗客に「大丈夫です」と短く声をかける。
 どれも控えめで、誰かに感謝されることを求めていない。
 それは職務の一環かもしれない。でも、美桜にはそこにさりげない思いやりを感じた。

 けれど、遼はあくまで淡々としていて、美桜にだけ特別に接しているわけではない。
 それが余計に、彼の心の中を知りたくさせた。

     

 フライトは順調に終盤を迎え、ロサンゼルス空港に着陸。
 降機準備を整え、乗客を送り出していると、通路の向こうで遼と同僚の女性CAが並んで歩く姿が目に入った。
 女性が何かを楽しそうに話し、遼は短く相槌を打つ。
 その距離感に、美桜はなぜか胸がちくりとした。
 ――別に、気にすることじゃない。職場なんだから。

 そう自分に言い聞かせる。
 だが、心は思うように納得してくれなかった。

 全員の降機が終わり、ゲートへ向かう途中、ふと遼と目が合った。
 ほんの一瞬、口元がわずかに緩んだように見えた。
 ――今の、笑った?

 問いかける間もなく、遼は視線を逸らし、足早に歩き去った。
 美桜はその背中を見送りながら、さっき感じた温かさと、わずかな寂しさを胸に抱えた。

 まだこの時は知らなかった。
 この“微妙な優しさ”が、やがて自分を深く惑わせ、長くもどかしいすれ違いの始まりになることを。
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