二つの航路

第二章 近くて遠い距離

 ロサンゼルスからの帰国便を終えた午後。
 成田空港のスタッフ通路は、到着ラッシュのざわめきに包まれていた。重ねられたスーツケースがカラカラと車輪の音を響かせ、制服姿の乗務員たちが交差して行き交う。
 美桜はキャリーケースのハンドルを握り、歩きながらスカーフを緩めた。首筋に残るわずかな汗は、長時間フライトの疲労を物語っている。

「新しいチーム、どう?」
 横から伸びてきた声は軽やかだった。振り向くと、森川がそこにいた。
 すらりとした体躯、艶やかにまとめられた髪。制服のラインまで完璧に整った姿は、まるで雑誌のモデルのようだ。歩くたびにヒールが小気味よく床を打つ。

「東條機長、ちょっと怖いでしょ?」
 森川は笑みを含ませながら、さりげなく美桜の歩調に合わせる。
 美桜は表情を曖昧に整え、「そう…ですかね」と小さく返した。

 森川は視線を遠くにやり、懐かしむように言葉を続ける。
「昔から一緒に飛んでるけどね、ああ見えてちゃんと見てくれる人よ」

 昔から――。
 その一言が、美桜の胸の奥に小さな棘を刺した。言葉の軽さの裏に、積み重ねた時間と信頼が透けて見える気がする。
 彼女は笑顔を作って頷いたが、心の奥にはわずかなざわつきが残った。

     

 数日後。成田発シンガポール行きの便。
 ブリーフィングルームのドアを開けると、すでに数人の乗務員が席についていた。その中に、懐かしい顔を見つける。

 直哉。
 訓練学校時代からの同期で、何度も同じ便に乗務した仲だ。笑うと少し子どもっぽくなる目尻は、昔と変わらない。
 「久しぶりだな」と口の形で挨拶され、美桜も口元だけで笑い返す。
 その数秒間、部屋の隅に立つ遼の視線が、静かにこちらをかすめていたことに美桜は気づかなかった。

     

 巡航に入った客室は、落ち着いた照明に包まれている。
 飲み物の準備をしていると、森川がふとギャレーに現れた。
 「さっき、直哉くんと楽しそうだったわね」
 軽い声色に、美桜は笑って「同期ですから」とだけ答える。

 短いやり取りはそれで終わったが、後方で水を手に取っていた遼の耳には届いていた。
 遼は何も言わず、静かに背を向けた。その動きは無音に近く、表情は読み取れない。

     

 ビジネスクラスでの飲み物サービス中。
 機体がわずかに揺れ、美桜の手がぶれた。水面が不安定に波打ち、零れそうになった瞬間――横から伸びた手が、カップを支えた。

 遼だった。
 制服越しに伝わる体温はほんの一瞬だったが、不思議な熱を残す。
「気をつけろ」
 低く短い声。
 次の瞬間には手が離れ、遼は何事もなかったように背を向けて通路を歩き去った。
 残された美桜の心拍は、揺れよりも速く乱れていた。

     

 後方ギャレーでの休憩時間。
 直哉と並び、お菓子をつまんでいると、彼がふと真剣な声になる。
「例の海外拠点の話、考えてる?」
「うん…まだ迷ってるけど、挑戦してみたい気持ちはある」
 「いいと思うよ」
 直哉の笑みには、長年の信頼からくる温かさがあった。美桜もつられて微笑む。

 そのとき、通路の向こうで立ち止まる影があった。
 遼。
 何かを言いかけたように唇が動くが、すぐに引き締まった表情に戻り、操縦席へと姿を消した。

     

 着陸後、降機を終えたゲート前。
 前方で、遼と森川が並んで話していた。森川が笑い、遼が短く頷く。その自然な距離感に、美桜はまた胸を締め付けられる。

 ――やっぱり、私なんか眼中にない。
 そう思いながらも、なぜか視線を外せなかった。
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