二つの航路

第十章 ぶつかる声

 成田に戻った翌日、美桜は予備日にもかかわらず会社からの呼び出しを受けた。
 整備上の関係で急遽、臨時便の乗務が決まったのだ。
 短時間のフライト、そしてメンバー表の中に――遼の名前があった。

 制服に袖を通しながら、胸の奥がざわつく。
 避けられ続けた視線、何度も逸らされた言葉。
 このままでは、何も変わらないまま終わってしまう。
 ――今日は、聞く。
 心の奥で、そう固く決めた。

     

 ブリーフィングルーム。
 遼はすでに席に着き、資料を静かにめくっていた。
 その横顔には、やはり近寄りがたい空気がある。
 しかし美桜は視線を逸らさず、意図的に彼の真正面の席に座った。
 遼の手が一瞬止まり、視線がこちらに向く。
 短く「おはよう」とだけ言い、また資料に目を落とす。

 ――それでも、逃げない。

     

 離陸後、機内は落ち着いていた。
 前方ギャレーで食器を整えていると、背後から低い声がした。
「……あの男とは、何を話している」
 振り返ると、遼が通路に立っていた。
「……あの男?」
「直哉だ。お前、このところずっと一緒にいるだろう」
 その声音には、抑え込んだ苛立ちがにじんでいる。

 美桜の胸に、積み重なっていた疑問が一気にあふれ出す。
「それを聞いて、どうするんですか」
「……答えろ」
「じゃあ、どうして機長は私を避けるんですか? 話しかけても目を逸らす、何か言いかけても黙る。そんな態度で、何を信じろって言うんですか」

 遼の眉がわずかに動く。
 しばし沈黙。
「……仕事中だ」
 そう言って背を向けようとしたその腕を、美桜は咄嗟に掴んだ。

「仕事中だからこそ、言ってください。私、ずっと――」
 言葉が震え、喉が詰まる。
 遼は一度目を閉じ、低く吐き出すように言った。
「……お前と距離を置かないと、冷静でいられない」

 その一言が、胸の奥に深く突き刺さる。
 けれど次の瞬間、遼は腕を振りほどき、足早にギャレーを出て行った。
 残された美桜は、強く握った手のひらに爪痕を感じながら立ち尽くした。

     

 着陸後。
 乗客を見送り終え、最後の片付けをしていると、遼が再び現れた。
「……さっきのことは、忘れろ」
 その声は、さっきよりも少しだけ柔らかかった。
 だが、美桜は首を横に振る。
「忘れません。忘れたくありません」

 遼が何か言いかけ、しかし飲み込む。
 視線が絡み、空気が張り詰める。
 ほんの数秒が、何分にも感じられた。

 ――次の言葉さえ聞ければ。
 そう思った瞬間、整備士の声が響き、緊張が断ち切られた。
 遼は短く「また話す」とだけ言い残し、出口へと向かった。

 残された美桜の胸の奥には、かすかな希望と、消えない不安が同居していた。
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