二つの航路
第九章 沈黙の狭間
成田空港のロビーに、冷たい春の風が吹き込んだ。
美桜は制服の上から薄手のコートを羽織り、搭乗ゲートへと向かう。
今日の便はシンガポール行き。比較的短いフライトだが、乗務員のメンバー表にはまた遼の名前があった。
この数ヶ月、同じ便に乗るたび、距離は縮まるどころか遠ざかっていく気がする。
ブリーフィングルームの扉を開けた瞬間、室内の空気がわずかに張り詰める。
遼は航路図を確認しており、その傍らには森川が立っていた。
森川の笑い声がふっと耳に届く。
――また、あの距離感。
美桜は自分の席に腰を下ろし、配られた資料に視線を落とす。
だが、ページの文字は頭に入らなかった。
離陸から二時間後。
機内は穏やかで、乗客たちはそれぞれの時間を楽しんでいる。
美桜は通路をゆっくり進みながら、水のボトルをトレーに並べて配っていた。
客席の横を通り過ぎるたび、視線の端に遼の姿がちらつく。
操縦席から休憩に出てきたのだろう、彼は前方ギャレーで何かを探しているようだった。
通り過ぎざまに視線が交わった。
しかし、いつも通り、ほんの一瞬で逸らされる。
胸の奥に、冷たいものが落ちていく感覚。
それでも、心は勝手に彼の動きを追ってしまう。
軽い揺れが収まった直後、ギャレーで整理をしていると、背後から声がした。
「佐伯」
振り向くと、遼が立っていた。
目を合わせた瞬間、何かを言いかけて、しかし唇が閉じられる。
「……何でもない」
それだけを残し、彼は歩き去った。
残された美桜は、手の中のトレーの重さを急に感じる。
シンガポール到着後のホテルロビー。
現地スタッフから鍵を受け取ると、直哉が近づいてきた。
「明日の朝、少し時間ある? 相談したいことがあって」
「……わかった」
その会話を背後で誰かが聞いていたような気がして、振り返ったが、誰の姿もなかった。
翌日、ホテル近くのカフェ。
直哉とテーブルを挟み、仕事の話をしていた。
将来の異動、キャリアプラン、そして新しい国での生活の可能性。
現実的な話ほど、美桜の心はどこか宙に浮いていた。
窓の外を見た瞬間、通りの向こうに遼の姿が見えた。
こちらに気づくことなく、ゆっくりと歩き去っていく背中。
その一瞬が、なぜか深く胸を締めつけた。
復路の便。
離陸前、客席確認を終えて前方に戻ると、遼がギャレーに立っていた。
視線が合う。
ほんの少し、何かを伝えようとする気配。
だが、その瞬間、森川が笑顔で声をかけてきた。
「機長、これ、例の書類です」
渡された封筒を受け取りながら、遼は美桜から視線を外した。
心の奥で何かがきしむ音がした。
巡航中、通路の先で直哉と遼が向かい合って話しているのが見えた。
二人の表情は真剣で、内容までは聞き取れない。
近づくと会話が途切れ、遼は短く「仕事に戻れ」と告げた。
その声は冷たいはずなのに、どこか押し殺した響きを帯びていた。
成田到着。
乗客を見送り終え、片付けをしていると、直哉が美桜に小さく言った。
「このままだと……お前、後悔するぞ」
問い返す前に、彼はギャレーを出て行った。
そこへ遼が入ってくる。
一瞬、視線がぶつかる。
けれど、彼は何も言わず、そのまま通り過ぎて行った。
――もう、限界かもしれない。
その思いが、静かに胸の奥で形を成し始めていた。
美桜は制服の上から薄手のコートを羽織り、搭乗ゲートへと向かう。
今日の便はシンガポール行き。比較的短いフライトだが、乗務員のメンバー表にはまた遼の名前があった。
この数ヶ月、同じ便に乗るたび、距離は縮まるどころか遠ざかっていく気がする。
ブリーフィングルームの扉を開けた瞬間、室内の空気がわずかに張り詰める。
遼は航路図を確認しており、その傍らには森川が立っていた。
森川の笑い声がふっと耳に届く。
――また、あの距離感。
美桜は自分の席に腰を下ろし、配られた資料に視線を落とす。
だが、ページの文字は頭に入らなかった。
離陸から二時間後。
機内は穏やかで、乗客たちはそれぞれの時間を楽しんでいる。
美桜は通路をゆっくり進みながら、水のボトルをトレーに並べて配っていた。
客席の横を通り過ぎるたび、視線の端に遼の姿がちらつく。
操縦席から休憩に出てきたのだろう、彼は前方ギャレーで何かを探しているようだった。
通り過ぎざまに視線が交わった。
しかし、いつも通り、ほんの一瞬で逸らされる。
胸の奥に、冷たいものが落ちていく感覚。
それでも、心は勝手に彼の動きを追ってしまう。
軽い揺れが収まった直後、ギャレーで整理をしていると、背後から声がした。
「佐伯」
振り向くと、遼が立っていた。
目を合わせた瞬間、何かを言いかけて、しかし唇が閉じられる。
「……何でもない」
それだけを残し、彼は歩き去った。
残された美桜は、手の中のトレーの重さを急に感じる。
シンガポール到着後のホテルロビー。
現地スタッフから鍵を受け取ると、直哉が近づいてきた。
「明日の朝、少し時間ある? 相談したいことがあって」
「……わかった」
その会話を背後で誰かが聞いていたような気がして、振り返ったが、誰の姿もなかった。
翌日、ホテル近くのカフェ。
直哉とテーブルを挟み、仕事の話をしていた。
将来の異動、キャリアプラン、そして新しい国での生活の可能性。
現実的な話ほど、美桜の心はどこか宙に浮いていた。
窓の外を見た瞬間、通りの向こうに遼の姿が見えた。
こちらに気づくことなく、ゆっくりと歩き去っていく背中。
その一瞬が、なぜか深く胸を締めつけた。
復路の便。
離陸前、客席確認を終えて前方に戻ると、遼がギャレーに立っていた。
視線が合う。
ほんの少し、何かを伝えようとする気配。
だが、その瞬間、森川が笑顔で声をかけてきた。
「機長、これ、例の書類です」
渡された封筒を受け取りながら、遼は美桜から視線を外した。
心の奥で何かがきしむ音がした。
巡航中、通路の先で直哉と遼が向かい合って話しているのが見えた。
二人の表情は真剣で、内容までは聞き取れない。
近づくと会話が途切れ、遼は短く「仕事に戻れ」と告げた。
その声は冷たいはずなのに、どこか押し殺した響きを帯びていた。
成田到着。
乗客を見送り終え、片付けをしていると、直哉が美桜に小さく言った。
「このままだと……お前、後悔するぞ」
問い返す前に、彼はギャレーを出て行った。
そこへ遼が入ってくる。
一瞬、視線がぶつかる。
けれど、彼は何も言わず、そのまま通り過ぎて行った。
――もう、限界かもしれない。
その思いが、静かに胸の奥で形を成し始めていた。