二つの航路

第十三章 交差する影

 ロンドンから戻った翌週、朝のブリーフィングルームに入った美桜は、いつもと違う空気を感じた。
 数人のクルーがざわつく中、ひときわ背筋の伸びた女性が立っていた。
 ショートカットに鋭い眼差し、真新しい制服がよく似合う。
 紹介されたのは、新任の副操縦士・神崎玲奈。
 その名を聞いた瞬間、遼の表情がわずかに揺れた。

「……久しぶりだな」
 低く抑えた遼の声。玲奈は口元を上げる。
「ええ、本当に。まさか同じフライトになるなんて」
 そのやり取りが、なぜか胸の奥をざわつかせた。

     

 離陸準備の間も、玲奈と遼は業務上の確認を淡々と交わしていた。
 だが、その合間に時折交わされる短い笑みや視線が、美桜の視界の端を刺す。
 ――業務だから。そう言い聞かせても、過去を共有する二人の空気感は、外から見ても特別だった。

 食事提供を終え、前方ギャレーでボトルを整えていると、森川が近寄ってきた。
「ねえ、聞いた? 神崎さん、昔、東條機長と同じ訓練コースにいたんだって。成績優秀で、よくペアを組んでたらしいわよ」
「……そうなんですか」
 努めて平静を装った声が、少しだけ震えた。

     

 巡航中、客室後方で乗客対応をしていると、前方から遼と玲奈が並んで歩いてくるのが見えた。
 肩が触れるほど近い距離。
 笑みを交わす二人に、胸の奥の温度が急速に下がっていく。
 近づくにつれ、遼の視線が一瞬だけ美桜に向けられた。
 けれど、その表情からは何も読み取れなかった。

     

 休憩時間、美桜は仮眠室のカーテンを閉めた。
 薄暗い空間で、制服の袖を握りしめる。
 ――私は信じるって、決めたはずなのに。
 でも、あの距離を見てしまえば、心は勝手に揺れる。

 うとうとしかけた時、カーテンの外から小さな声がした。
「……美桜、起きてるか」
 遼の声だ。
 返事をしようとしたが、喉が固まった。
 ほんの数秒の沈黙の後、足音は遠ざかっていく。

     

 着陸後、乗客を見送り終え、機内に残ったのは数人のクルーだけ。
 前方ギャレーで荷物をまとめていると、遼が近づいてきた。
「さっき、声をかけた」
「……聞こえてました」
「返事がなかった」
「業務中でしたから」
 自分でもわかるほど、冷たい声になっていた。

 遼の眉がわずかに寄る。
「神崎は、昔の同僚だ。それ以上でも以下でもない」
「説明……ありがとうございます」
 短い言葉に、感情がこぼれそうになるのを必死で抑える。
 遼は何か言いかけ、しかし他のクルーが近づいてきたことで口をつぐんだ。

     

 ホテルへのバス、美桜は最後部の席に座った。
 前方には、遼と玲奈が並んで座っている。
 窓の外に視線を向けながらも、耳は二人の低い会話を拾ってしまう。
 ――私の居場所は、どこなんだろう。
 息が詰まりそうになり、窓の外の夜景が滲んだ。

     

 翌朝、ホテルのロビー。
 集合時間より少し早く降りてきた美桜の前に、遼が立っていた。
「話がしたい。……今じゃだめか」
「集合時間まで、十分しかありません」
「十分で足りる話じゃない」
 その真剣な目を見ても、胸の奥の棘は消えなかった。

 集合を告げる声が響く。
 遼は何かを飲み込むように視線を落とし、「あとで必ず」とだけ告げて背を向けた。

 美桜は動けなかった。
 その背中を追えば、答えがわかるかもしれない。
 でも――今はまだ、怖かった。
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