二つの航路
第十四章 空に告げる
成田到着の翌日、美桜は早朝の通路を歩いていた。
制服の襟を正しながらも、胸の奥には重たい鉛が沈んでいる。
――昨日の「あとで必ず」。
遼からのメッセージはなかった。電話も来ない。
ブリーフィングルームに入ると、すでに遼は着席していた。
その隣には神崎玲奈。資料を覗き込みながら何かを確認している。
美桜は努めて視線を逸らし、自分の席に着く。
数秒後、遼の視線を感じたが、顔を上げることはできなかった。
離陸後、巡航高度に達した頃、遼が操縦席から出てきた。
業務連絡を装って美桜の近くに立つ。
「休憩時間、話せるか」
声は低く、しかし揺るぎない。
「……はい」
短く答えるのが精一杯だった。
休憩室。
カーテンを引き、二人きりになると、遼は深く息を吐いた。
「昨日は、言葉が足りなかった。いや、最初からずっと足りなかった」
美桜は黙って彼を見る。
遼の目は、逃げ場を探すことなく真正面に向けられていた。
「神崎とは、十年前、訓練校で組んだことがある。同期の中で成績が近く、よくペアを組まされた。それだけだ」
「……だけ?」
「ああ。彼女が今回、この路線に配属されることも、俺は昨日まで知らなかった」
その声に嘘はなかった。
けれど、美桜の胸の奥に溜まった影は簡単には消えない。
「でも、楽しそうに見えました。私の知らないあなたを、彼女は知ってるんだって」
遼は一歩近づく。
「俺の今を知っているのは、お前だけだ」
短く、しかし確実に。
「訓練生の頃の俺なんて、今のお前に比べたら、何も持っていなかった」
言葉よりも、その眼差しが胸の奥の氷を溶かしていく。
不意に視界が滲み、瞬きを繰り返す。
「……申告の承認が下りた。次の勤務からは、もう隠れる必要はない」
美桜は息を呑んだ。
「本当ですか」
「正式な通知をもらった。だから——」
遼は少しだけ笑い、「機内で手を繋ぐのはまだ規定違反だが」と冗談めかす。
その軽さが、逆に彼の本気を際立たせた。
帰国便の夜。
客室は消灯され、柔らかな機内灯だけが座席の列を照らしていた。
前方ギャレーで最後の確認をしていると、遼が歩み寄る。
他のクルーは後方に下がっており、この狭い空間に二人きり。
「お疲れさま」
「機長も、お疲れさまです」
業務用のやり取りのようで、どちらも目は逸らさない。
「次のフライトからは、堂々と“おはよう”って言えるな」
「……はい」
その瞬間、小さく笑い合った。
それは二人だけの暗号のようで、甘く、解放感に満ちていた。
成田到着後、到着ゲートを出たところで、遼が立ち止まった。
「見送りはここまでだな」
「そうですね」
周囲には数人のクルーがいたが、遼は一歩踏み出し、美桜の耳元にだけ届く声で囁いた。
「次の便までに、ちゃんとしたデートの計画を立てておく」
頬が熱くなるのを感じながら、美桜は小さく頷いた。
数日後。
初めて「承認後の恋人」として乗務する日が来た。
ブリーフィングルームに入り、遼と視線が合う。
今度は、何も隠さず笑えた。
「おはようございます、遼」
「おはよう、美桜」
その声を、周囲は何気なく聞き流す。
けれど二人にとって、それはやっと手に入れた空の下の自由だった。
離陸後、青い大気の向こうに広がる雲海を見ながら、美桜は思った。
すれ違いも、沈黙も、疑いも、全部を越えてきた。
これからも揺れることはあるだろう。
でも、もう一人で耐える必要はない。
背後から遼の声がした。
「見ろ、雲の切れ間。あそこ、朝日が入ってる」
指さす先に、金色の光が差し込んでいた。
美桜はその光を見つめながら、小さく答えた。
「……綺麗ですね」
「そうだな」
その短い会話の奥に、これからの長い航路が確かに見えた。
制服の襟を正しながらも、胸の奥には重たい鉛が沈んでいる。
――昨日の「あとで必ず」。
遼からのメッセージはなかった。電話も来ない。
ブリーフィングルームに入ると、すでに遼は着席していた。
その隣には神崎玲奈。資料を覗き込みながら何かを確認している。
美桜は努めて視線を逸らし、自分の席に着く。
数秒後、遼の視線を感じたが、顔を上げることはできなかった。
離陸後、巡航高度に達した頃、遼が操縦席から出てきた。
業務連絡を装って美桜の近くに立つ。
「休憩時間、話せるか」
声は低く、しかし揺るぎない。
「……はい」
短く答えるのが精一杯だった。
休憩室。
カーテンを引き、二人きりになると、遼は深く息を吐いた。
「昨日は、言葉が足りなかった。いや、最初からずっと足りなかった」
美桜は黙って彼を見る。
遼の目は、逃げ場を探すことなく真正面に向けられていた。
「神崎とは、十年前、訓練校で組んだことがある。同期の中で成績が近く、よくペアを組まされた。それだけだ」
「……だけ?」
「ああ。彼女が今回、この路線に配属されることも、俺は昨日まで知らなかった」
その声に嘘はなかった。
けれど、美桜の胸の奥に溜まった影は簡単には消えない。
「でも、楽しそうに見えました。私の知らないあなたを、彼女は知ってるんだって」
遼は一歩近づく。
「俺の今を知っているのは、お前だけだ」
短く、しかし確実に。
「訓練生の頃の俺なんて、今のお前に比べたら、何も持っていなかった」
言葉よりも、その眼差しが胸の奥の氷を溶かしていく。
不意に視界が滲み、瞬きを繰り返す。
「……申告の承認が下りた。次の勤務からは、もう隠れる必要はない」
美桜は息を呑んだ。
「本当ですか」
「正式な通知をもらった。だから——」
遼は少しだけ笑い、「機内で手を繋ぐのはまだ規定違反だが」と冗談めかす。
その軽さが、逆に彼の本気を際立たせた。
帰国便の夜。
客室は消灯され、柔らかな機内灯だけが座席の列を照らしていた。
前方ギャレーで最後の確認をしていると、遼が歩み寄る。
他のクルーは後方に下がっており、この狭い空間に二人きり。
「お疲れさま」
「機長も、お疲れさまです」
業務用のやり取りのようで、どちらも目は逸らさない。
「次のフライトからは、堂々と“おはよう”って言えるな」
「……はい」
その瞬間、小さく笑い合った。
それは二人だけの暗号のようで、甘く、解放感に満ちていた。
成田到着後、到着ゲートを出たところで、遼が立ち止まった。
「見送りはここまでだな」
「そうですね」
周囲には数人のクルーがいたが、遼は一歩踏み出し、美桜の耳元にだけ届く声で囁いた。
「次の便までに、ちゃんとしたデートの計画を立てておく」
頬が熱くなるのを感じながら、美桜は小さく頷いた。
数日後。
初めて「承認後の恋人」として乗務する日が来た。
ブリーフィングルームに入り、遼と視線が合う。
今度は、何も隠さず笑えた。
「おはようございます、遼」
「おはよう、美桜」
その声を、周囲は何気なく聞き流す。
けれど二人にとって、それはやっと手に入れた空の下の自由だった。
離陸後、青い大気の向こうに広がる雲海を見ながら、美桜は思った。
すれ違いも、沈黙も、疑いも、全部を越えてきた。
これからも揺れることはあるだろう。
でも、もう一人で耐える必要はない。
背後から遼の声がした。
「見ろ、雲の切れ間。あそこ、朝日が入ってる」
指さす先に、金色の光が差し込んでいた。
美桜はその光を見つめながら、小さく答えた。
「……綺麗ですね」
「そうだな」
その短い会話の奥に、これからの長い航路が確かに見えた。