野いちご源氏物語 三六 横笛(よこぶえ)
秋の夕暮れ時のしみじみとした雰囲気に誘われて、大将(たいしょう)様は(おんな)()(みや)様をご訪問なさった。
宮様は女房(にょうぼう)たちと(こと)などをお弾きになっていたみたい。
縁側(えんがわ)は片付けが途中だけれど、大将様がお入りになったから、女房はそっと(すだれ)の向こうのお部屋に入っていく。
その着物の音も、ふわりと(ただよ)うお(こう)の香りも上品で奥ゆかしい。
いつものように(はは)御息所(みやすんどころ)が簾越しに応対して昔話などをなさる。

大将様は、亡き祖母君(そぼぎみ)である大宮(おおみや)様のお住まいだった三条(さんじょう)(てい)でお暮らしになっている。
そちらは一日中、人の出入りが多くて騒がしいの。
幼いお子たちがにぎやかに走り回っているのがいつもの光景(こうけい)だから、こちらの静かなお屋敷にほっとなさる。
母娘(ははむすめ)だけのお暮らしになって、少し荒れている感じはするけれど、上品に()(だか)くお住まいでいらっしゃる。
夕日に照らされたお庭は秋の野原のようで、虫の()が響きわたるなかに秋草(あきくさ)の花が咲き乱れている。

縁側に置かれたままの和琴(わごん)を少し鳴らしてごらんになると、季節に合うように調律(ちょうりつ)されていた。
よく弾きこまれているらしく、弾く人の(そで)の香りが移っているの。
<女好きにはたまらないお屋敷だろうな。後先(あとさき)考えず女君(おんなぎみ)を口説いて、世間の(うわさ)になるのだろう>
想像しながらもう少し弾くと、音色に聞き覚えがおありになる。
亡き衛門(えもん)(かみ)様がいつも使っておられた和琴なの。

おもしろい曲を一曲弾いて、
「衛門の督はすばらしい音色で弾いておられましたね。この和琴はその音色を覚えているでしょうから、どうぞ宮様が弾いてお聞かせくださいませ」
とお願いなさる。
「それが宮様は、婿君(むこぎみ)がお亡くなりになってから和琴は少しもお弾きにならないのです。昔は入道(にゅうどう)上皇(じょうこう)様にもおほめいただいたほどでしたのに。何もお考えになれないようなご様子ですけれど、悲しいことは思い出されるのでしょうね」
御息所がお返事なさった。

「ごもっともなお悲しみでございましょう。ただ、永遠につづくものではないと信じておりますが」
そう言って、大将様は(すだれ)の奥へ和琴を押しやりなさった。
御息所はお受け取りにならない。
ご自分が弾くことは辞退(じたい)なさる。
「やはり大将様がお弾きくださいませ。この和琴が婿君の音色を覚えているかどうか、私にお聞かせください。ふさぎこんでいる耳も頭もすっきりいたしましょうから」

「それでしたら、親友の私よりも、ご正妻(せいさい)の宮様の方が亡き衛門の督の音色をよく聞いていらっしゃいましたでしょう。ぜひお聞かせくださいませ」
宮様はお引き受けなさらない。
楽器の音色をよその男性に聞かせるなんて軽々(かるがる)しいことだもの。
大将様もそれを分かっておられるから無理(むり)()いはなさらない。

月が出て明るい夜になった。
秋の風は肌寒い。
宮様は物悲しくなって、(そう)を少しだけかき鳴らしなさった。
深みのあるよい音色が大将様のお心を()く。
大将様は琵琶(びわ)を抱えて、優しい音色で「想夫恋(そうふれん)」という曲をお弾きになった。
夫を恋しく想うときに弾く曲として知られている。
「図々しくも宮様のお心のうちを分かっているかのように弾いてしまいました。この曲をお聞きになれば何かご反応がいただけるかと存じまして」

大将様としては、宮様にお返事か演奏をしていただきたいとお思いなの。
でも、「想夫恋」に感動して他の男に気を許すなんて、あまりに軽々しい。
「遠慮して何もおっしゃらないのですね。沈黙(ちんもく)なさればなさるほど私は想像してしまうけれど」
宮様は仕方なく「想夫恋」の最後の部分だけをお弾きになった。
それから、
「何をお弾きになりましても、私には秋の夜の物悲しさしか分かりません」
と話を()らしてしまわれる。

「いろいろと風流ぶったことをしてしまいました。あまり遅くまで()(すわ)っていては、亡き衛門の督に(しか)られてしまいそうです。もう失礼いたしましょう。またすぐにお(うかが)いいたしますから、他の男に楽器を(さわ)らせなさいませんように。心配だな。お約束くださいますか」
はっきりとではないけれど、宮様と恋人関係になりたいということを匂わせておっしゃる。

「もっとお聞かせいただきとうございました」
ご訪問のお礼として御息所が笛を差し上げなさる。
「亡き婿君のお形見(かたみ)でございます。歴史のある笛だそうで、このような寂しい家に()もれさせておくのはもったいないと存じますから、どうぞお帰りの乗り物でお吹きくださいませ。ここから聞かせていただきます」
大将様はうやうやしくお受け取りになる。

衛門の督様がいつも大切に持ち歩いておられた笛なの。
「この笛の持っている力を私では引き出しきれていないような気がする。いつか吹きこなせる人に(ゆず)りつたえたい」
とたびたびおっしゃっていたことを思い出して、大将様は少しお吹きになる。
「私には立派すぎる笛のようです。亡き人を(なつ)かしむという口実(こうじつ)で下手な和琴はお聞きいただきましたが、これはとてもお聞かせできるようには吹けません」

お帰りになろうとすると御息所がおっしゃる。
「懐かしい笛の音でございます。おかげさまで婿君がお元気だったころの秋に戻ったような気がいたしました」
「衛門の督の音色までは再現できません。悲しいものでございますね」
ご出発なさるころには夜もすっかり()けていた。
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