桜吹雪が舞う夜に


桜はしばらく唇を噛んでいた。
沈黙が長く落ちて、部屋の時計の音ばかりがやけに響く。

やがて、彼女は勇気を振り絞るように顔を上げた。
「……水瀬、先生と話したこと、言いませんでした」

胸の奥がわずかにざわめく。
水瀬――名前を出されるだけで、あの挑発的な視線や、的確すぎる指摘が脳裏に浮かぶ。

「……別に、そんなの言う義務がない」
努めて淡々と返した。
本当は、何を言われたのか知りたくて仕方がないのに。


桜はためらいがちに口を開いた。
「……でも、水瀬先生と会った時、怒ってましたよね?」

胸がちくりと痛む。
思い出すのは、水瀬のあの挑発的な笑み。
そして、桜を試すような言葉。

「……水瀬に対してだよ」
ゆっくりと、噛みしめるように答える。
「君にじゃない。
ERは、まだ未熟な学生に見せて、中途半端に憧れだけ刺激していい場所じゃない。
俺は、そう思ってるから……あの時は腹が立ったんだ」

桜の目が揺れた。
「……私にじゃ、なかったんですね」

「違う」
迷いなく言い切る。
「桜、お前を信じたい。
でも……医療の現場には、知識も体力も覚悟も足りないままじゃ耐えられない場所がある。
俺は……お前が傷つくのを、どうしても見たくなかった」

声が震えそうになるのを抑えながら言葉を重ねた。

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