桜吹雪が舞う夜に
仕事を終えて夜、家の玄関を開けた瞬間、見慣れない並び方の靴に気づいた。
小さなスニーカー。……桜だ。
心臓が一瞬跳ね上がる。
合鍵を渡したのは自分だ。
けれど、彼女はこれまで一度もそれを使ったことがなかった。
律儀なあの子が、なぜ今日に限って。
思わず苦笑が漏れた。
リビングに入ると、桜はソファからすぐに立ち上がった。
俯いたまま髪を耳にかけ、落ち着かない様子でソファの縁を握っている。
緊張した面持ちで、俺を待っていた。
「……久しぶり」
桜は小さな声で返した。
「……勝手に来て、ごめんなさい」
「いつでも来ていいって言っただろ。忘れたのか」
柔らかく言ったつもりが、少しだけ声が掠れた。
本当は、どんな形であれ来てくれたことが嬉しかった。
「コーヒー淹れるよ。ホットでいいか」
無意識にそう言っていた。
気まずさを、温かい飲み物に隠したくて。
桜は慌てて首を振った。
「……いいです。それより、日向さんと話がしたい」
その仕草は、弱々しいのにどこか必死で。
胸がきゅっと締めつけられた。
――逃げ道はない。
彼女は本気で話をしに来たのだと、すぐに分かった。
「……いいよ。何から、話そうか?」
桜は深呼吸をして、指先をぎゅっと組み合わせた。
そして、震える声で言った。
「……ずっと連絡、できてなくて、ごめんなさい」
その言葉が落ちた瞬間、胸の奥で小さな痛みが走った。
……やっぱり気にしていたんだ。
無視するつもりなんてなかったはずだ。
ただ、どうすればいいか分からずに――きっと一人で抱え込んでいた。
「気にしてない」
そう口にすると、自分でも驚くほど声が低く落ち着いていた。
「お互い忙しかった。それだけだろ」
できるだけ軽く返した。
責めてしまえば、彼女はますます追い詰められる。
本当は、心配で仕方なかった。
夜遅くまで待っても返事がなく、電話を手に取っては結局かけられずに終わる日々。
“もしかして、このまま離れてしまうんじゃないか”――そんな恐れを、ずっと飲み込んでいた。
桜は小さく首を振った。
「……でも、気にしてたんです。
日向さんに呆れられたんじゃないかって……」
その声が弱々しくて、胸が締めつけられる。
(呆れるどころか、会えなくて気が狂いそうだったのは俺の方だ)
言葉にはできない想いを、喉の奥に押し込む。
ただ目の前の彼女を見つめ、続きを待った。