桜吹雪が舞う夜に
「そういやさ」
朔弥さんが、ふと思い出したように言った。
「日向もなんか海外出張がどうとか言ってたよなー。あいつ、また忙しくなるんじゃねぇの?」
「……はい。なんか学会があるって」
私は曖昧に答える。
「だろ? 会いにくくなるなら、この際もう付き合って二年だろ。……同棲でもすりゃいいんじゃね?」
「えっ……!」
思わず顔が熱くなるのを感じた。
「なんだよ、その反応」
朔弥さんはくすりと笑いながら肩を竦める。
「別に変なこと言ってねぇだろ。あいつもどうせ嫌がらねぇって」
「……」
返事を詰まらせながらも、心の奥にチクリと刺さる。
(同棲……そんなこと、考えたことなかったわけじゃない。でも、言い出せるだろうか……)
「……でも、日向さん、夜勤とかあるし……」
私はグラスを拭く手を止めて、ぽつりと続けた。
「夜勤明けに帰ってきたときに、生活音とかで邪魔しちゃったら、とか……つい考えちゃうんですよね」
朔弥さんは一瞬、きょとんとした顔をして、それから吹き出した。
「ははっ、お前なぁ。そういうとこ、真面目すぎんだよ」
「えっ……」
「生活音で眠れなくなるくらいなら、あいつのほうが耳栓でも買うだろ。ってか“邪魔になるかも”って発想がもう、可愛いわ」
私は顔を赤らめて下を向いた。
(……そんなふうに考えてたの、馬鹿みたいなのかな)
「まぁでも、そこまで心配してるなら、一度本人に聞いてみろよ。同棲するかどうかなんて、結局は二人で決めることなんだから」
私は俯いたまま、返事をすることができなかった。
……正直、もう一つ、気がかりなことがあった。
「いや、そもそも最近ほとんど毎日、家には行ってるんですけど……」
声がだんだん小さくなる。グラスを握る手に、力が入った。
「それでも……既に、正直、行くたびに求められて、困ってて……」
その瞬間、朔弥さんがこちらを二度見する。
「……は?」
恥ずかしさで視線を落としたまま、私はグラスを抱える。
「断ったこともなくて……でも、これって普通なのかなって……同棲なんかしたらどうなるんだろうって……」
次の瞬間。
「っははははは!!!」
カウンターの向こうで、朔弥さんが腹を抱えて笑い出した。
「マジか!おい、あの日向が?! あの聖人ぶってるストイック野郎が毎日?! どこにそんな体力あんのアイツ!」
「わ、笑わないでください……!」
慌てて声を上げるけど、耳まで真っ赤になっているのが自分でも分かる。
「いや無理だって! だって日向がだぞ? 昼間は病院で死ぬほど働いて、帰ったら毎日桜ちゃんに襲いかかってんの? バケモンかよ!」
笑い転げる声を聞きながら、私は顔を両手で覆った。
……なんでこんなこと相談しちゃったんだろう。
言わなきゃ良かった……。
「……もういいです。二度と相談しません」
むくれて背を向けると、朔弥さんはまだ笑いを引きずりながら、食器を水に沈めていた。
「幸せそうだってことは、よく分かったよ」
朔弥さんはフォローするように私の背中に声を掛けたが、私は敢えて無視を決め込んだ。
……それでも、そうか、もう2年か、と彼と積み上げてきた年月を思う。
私の玉砕覚悟の告白で始まった2年。
あの時、舞い散る桜の下で告白した時には、こんな風に同棲を考えるようになる未来なんて、全く想像できなかった。