桜吹雪が舞う夜に
ワインリストを差し出されたが、桜は明らかに困った顔をした。
「……あの、正直よく分からなくて」
「20歳未満のやつに勧める気はないから安心しろ。俺も、今日は車だから飲まないよ」
軽く笑いながらメニューを閉じると、彼女はほっとしたように小さく息をついた。
「じゃあ、ジュースでいいか?ここ、葡萄ジュースもきちんと作ってる」
「そんなのがあるんですか……!」
目を輝かせる様子に、思わずこちらまで口元が緩む。
運ばれてきた前菜の皿にナイフを入れると、桜は恐る恐るフォークを構えた。
「……すごく綺麗。こういうの、食べたことないです」
「ゆっくり味わえばいい。作った人に失礼だ」
「ふふっ……なんか、日向さんらしい」
彼女が少し笑った瞬間、場の緊張がふっとほどける。
魚料理が運ばれるころ、桜がふいに声を落とした。
「……なんだか、デートっぽいですね」
「デートだろ」
自然に返したつもりだったが、彼女は耳まで赤くして俯いた。
沈黙を破るように、店の奥でピアノの音が流れはじめる。
クラシックの旋律が穏やかに空間を満たし、桜は小さく目を瞬いた。
「……あ。これ、ドビュッシーですよね?」
「よく知ってるな」
「日向さんが好きだって言ってたから、ちょっと調べたんです」
胸の奥で何かが熱を帯びた。
ーーこんなふうに、自分の言葉ひとつで彼女が世界を広げていく。
その姿が、堪らなく愛おしい。
デザートが並ぶころ、桜はグラスを両手で持ちながら、ぽつりと呟いた。
「……私、今日一日、夢みたいでした」
その言葉に返す声が喉で詰まり、ただ、微笑むことで答えるしかなかった。