大嫌い!って100回言ったら、死ぬほど好きに変わりそうな気持ちに気付いてよ…。

第152話 “怖い”を、そのまま渡した日

木曜日の朝。

朱里は、通勤電車の中でスマホを握りしめていた。

メッセージは打っていない。

既読も未読も、今はどうでもいい。

(昨日、言うって決めたんだ)
言い訳をしない。
取り繕わない。
“平気な顔”をやめる。

会社に着くと、いつも通りの朝が流れていた。

コピー機の音、キーボードの音、誰かの笑い声。

そして――嵩。

「おはよう、中谷さん」

穏やかな声。

昨日と変わらない距離。

それが、少しだけ寂しくて、少しだけ安心する。

「……おはようございます」
ちゃんと返せた。
それだけで、今日は上出来だと思った。

午前中は、仕事に集中した。

集中しないと、心臓がうるさくて仕方なかったから。

昼休み。

社内カフェで席を探していると、声がした。

「中谷さん」
嵩だった。

「今日の帰り……昨日言ってた通り、一緒に歩ける?」
「……はい」
返事は早かった。
迷わなかった。
(逃げないって決めたから)

夕方。

定時を過ぎ、二人は並んで会社を出た。

空は薄いオレンジ色。

風が少しだけ冷たい。

最初は、いつも通りの沈黙。

でも今日は、沈黙を引き延ばさないと決めていた。

歩きながら、朱里は立ち止まった。

「……平田さん」

嵩も足を止める。

「どうしたの?」

優しい声。

それが、余計に怖くなる。

でも、逃げない。

朱里は深く息を吸った。

「私……怖いです」

一瞬、嵩の目が揺れた。
「何が?」

「全部です」
言葉が、止まらなくなる。
「好きって言われるのも、
 好きって言うのも、
 この距離が変わるのも」
視線を上げる。
「失うかもしれないって思うと、
 臆病になります」

声が少し震えた。
「平気な顔して、我慢したくなる。
 でも、それは……たぶん違うって、昨日言われました」
美鈴の顔が、一瞬よぎる。
「だから……逃げたくないです。
 怖いまま、ちゃんと話したい」
言い切った。

沈黙。
でも、それは怖い沈黙じゃなかった。

嵩は、すぐに答えなかった。
考えている時間を、ちゃんと取っている沈黙。

そして、ゆっくり口を開いた。
「……教えてくれて、ありがとう」
その一言が、まず胸に落ちた。

「怖いって言われて、正直……嬉しい」
「え?」
「信頼してくれてるって思ったから」
朱里は目を瞬いた。

「俺ね、
 中谷さんが一人で我慢するのが、一番怖い」
静かな声だった。

「離れることより、
 気づかないうちに、置いていかれる方が」
朱里の胸が、きゅっと締まる。

「だから……怖いなら、怖いって言って」
「……はい」
「迷うなら、迷ってるって言って」
少しだけ、距離が近づいた。

でも、触れない。
「俺は急がない。
 でも、止まらない」
その言葉は、重くて、優しかった。
「一緒に、進もう。
 逃げないペースで」

朱里の目に、熱いものが込み上げる。
「……はい」
それだけで、十分だった。

駅が見えてくる。
今日も、ここまで。
でも昨日より、確実に前にいる。

別れ際、嵩が言った。
「明日も……一緒に帰ろう」
「……はい。帰りたいです」

自分から言えた。
それが、何より嬉しかった。

背を向けて歩き出しながら、朱里は思う。
(怖いって言えたら、
 こんなに、息がしやすいんだ)
──逃げないって、こういうことかもしれない。
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