大嫌い!って100回言ったら、死ぬほど好きに変わりそうな気持ちに気付いてよ…。
第190話 踏み出した人だけが聞こえる音
中谷朱里は、スマートフォンを伏せたまま、しばらく動けずにいた。
画面に表示された嵩からの短いメッセージは、もう何度も読み返したはずなのに、胸の奥でまだ反響している。
——ありがとう。
——あのとき、言われなかった言葉に救われました。
それだけだった。
理由も説明も、感情の整理もない。けれど、朱里には十分すぎるほどだった。
「……そうか」
誰に向けるでもなく、小さく呟く。
伝えなかったことが、誰かを前に進ませることもある。
それは、勇気を出して話すこととは別の、もうひとつの選択だったのだと、今さらながら実感する。
キッチンから、田中美鈴の声がした。
「朱里ー、そろそろ行く時間じゃない?」
「はい、今行きます」
立ち上がり、コートに腕を通す。
鏡に映る自分は、少しだけ表情が柔らいで見えた。
「……よかったですね」
ふいに、美鈴が言う。
何のことかは聞かなくてもわかる。
「はい。でも、何かが終わったって感じじゃなくて」
「うん?」
「始まった、というほどでもなくて……ただ、ちゃんと“今”に戻ってきた感じです」
美鈴は一瞬考えてから、笑った。
「それ、一番健全だと思う」
玄関を出る直前、朱里はもう一度スマートフォンを手に取る。
返信を書くかどうか、少し迷って——結局、短い一文だけを打った。
——こちらこそ。
——無理のない速度で、進んでください。
送信。
それでいい、と自分に言い聞かせる。
同じ頃。
平田嵩は、オフィスの窓際に立ち、街を見下ろしていた。
朱里からの返信を読み終えたあと、不思議と胸が軽かった。
背中を押された、という感覚はある。
けれどそれは、「行け」と言われたわけでも、「待つ」と約束されたわけでもない。
——無理のない速度で。
その言葉が、今の自分には何よりありがたかった。
「平田さん、会議室空きました」
後輩の声に、嵩は振り返る。
「ああ、ありがとう。すぐ行く」
歩き出しながら、ふと思う。
言われなかった言葉があったからこそ、
自分は“自分で決める場所”に立てたのだ、と。
踏み出した人だけが聞こえる音がある。
それは、大きな拍手でも、劇的な合図でもない。
ただ、足元で確かに鳴る、小さな一歩の音だ。
嵩はその音を、確かに聞いていた。
画面に表示された嵩からの短いメッセージは、もう何度も読み返したはずなのに、胸の奥でまだ反響している。
——ありがとう。
——あのとき、言われなかった言葉に救われました。
それだけだった。
理由も説明も、感情の整理もない。けれど、朱里には十分すぎるほどだった。
「……そうか」
誰に向けるでもなく、小さく呟く。
伝えなかったことが、誰かを前に進ませることもある。
それは、勇気を出して話すこととは別の、もうひとつの選択だったのだと、今さらながら実感する。
キッチンから、田中美鈴の声がした。
「朱里ー、そろそろ行く時間じゃない?」
「はい、今行きます」
立ち上がり、コートに腕を通す。
鏡に映る自分は、少しだけ表情が柔らいで見えた。
「……よかったですね」
ふいに、美鈴が言う。
何のことかは聞かなくてもわかる。
「はい。でも、何かが終わったって感じじゃなくて」
「うん?」
「始まった、というほどでもなくて……ただ、ちゃんと“今”に戻ってきた感じです」
美鈴は一瞬考えてから、笑った。
「それ、一番健全だと思う」
玄関を出る直前、朱里はもう一度スマートフォンを手に取る。
返信を書くかどうか、少し迷って——結局、短い一文だけを打った。
——こちらこそ。
——無理のない速度で、進んでください。
送信。
それでいい、と自分に言い聞かせる。
同じ頃。
平田嵩は、オフィスの窓際に立ち、街を見下ろしていた。
朱里からの返信を読み終えたあと、不思議と胸が軽かった。
背中を押された、という感覚はある。
けれどそれは、「行け」と言われたわけでも、「待つ」と約束されたわけでもない。
——無理のない速度で。
その言葉が、今の自分には何よりありがたかった。
「平田さん、会議室空きました」
後輩の声に、嵩は振り返る。
「ああ、ありがとう。すぐ行く」
歩き出しながら、ふと思う。
言われなかった言葉があったからこそ、
自分は“自分で決める場所”に立てたのだ、と。
踏み出した人だけが聞こえる音がある。
それは、大きな拍手でも、劇的な合図でもない。
ただ、足元で確かに鳴る、小さな一歩の音だ。
嵩はその音を、確かに聞いていた。