隠れ夫-隣の同僚は私の秘密の恋人
秘密の夫、隣の同僚

 プロローグ
 橘真琴は地味で平凡な事務員。隣の席の篠宮怜司は、誰にでも優しく紳士的な同僚だと思っていた。助けてもらう日々に、ほんの少し胸が高鳴ることもあるけれど、特別な意味はない――はずだった。
 ところが、ふと耳にした噂で、彼が実は会社を率いる御曹司だと知る。さらに、二人には誰にも知られていないもう一つの秘密があった。
 日常では同僚として振る舞う二人の関係、しかしその裏で交わされる視線と想い。秘密があるからこそ、恋は静かに、そして確実に動き始める――。
 
 第1章 優しい同僚
「橘さん、それ俺がやりますよ」
 差し出された大きな書類の束に、思わず手を止めた。困っていたのは事実だった。今週は繁忙期で、入力作業も資料整理も山のように積まれている。けれど私の担当は私がやるべきで、同僚に押しつけるわけには――。
「ありがとうございます。でも、これは私の仕事で――」
「いいんです。橘さん、昨日も残ってたでしょ? 体を壊されたら困るから」
 さらりと笑いながら、彼は私の机から書類を引き取ってしまった。
 篠宮怜司さん。端正な顔立ちに落ち着いた声、そして分け隔てなく優しい態度。同じ課で働く彼は、私を含め女性社員の憧れの的だった。
 私はただの平凡な事務員。地味なスーツにまとめ髪。社内では真面目で目立たない子と思われているだろう。
 そんな私にも、彼はいつも気さくに声をかけてくれる。
 ――でも。
 勘違いしてはいけない。篠宮さんは誰にでも優しい人。私だけに特別なわけじゃない。そう自分に言い聞かせながら、胸の奥にふわりと芽生える感情を押し込めた。
「おい、聞いたか?」
「何が?」
 休憩室でコピーを待っていたとき、先輩二人の会話が耳に入った。
「篠宮さん、やっぱり本社の御曹司らしいぞ」
「え、嘘でしょ? だってあの人、普通にうちの課で働いてるじゃない」
「社長の親戚って噂は前からあったけど……この間、社長と一緒に外回りしてるとこを見たって人がいてさ」
 御曹司――その言葉に、手の中のコピー用紙を落としそうになった。慌てて取り繕うけれど、心臓の鼓動が早まっているのを隠せない。
 ――まさか。そんなこと、信じられるわけがない。けれど休憩室を出た廊下の先で、篠宮さんが誰かと話しているのを目にしてしまった。
 相手は、我が社の社長。柔らかく笑う篠宮さんに、社長はまるで父親が息子を見守るような目を向けていた。
 その視線を見て、足が止まった。
 やっぱり噂は本当なのだろうか。気づかれないように背を向けようとしたその瞬間。
「……橘さん?」
 低い声に呼び止められ、振り返ってしまった。
 篠宮さんと目が合った。いつも通りの柔らかな笑顔――のはずなのに、その瞳が鋭く光ったように見えた。
 その視線に射抜かれた瞬間、心臓が大きく跳ねた。
 慌てて会釈してその場を離れると、足早に自分の席へ戻った。
(やっぱり……あの噂、本当なの?)
 もし篠宮さんが本当に御曹司だとしたら。
 
 普通の事務員である私が、気軽に話していい相手ではない。胸の奥がざわついて、さっきまでの何気ないやり取りまで特別な意味を持っているように思えてしまう。
 その日の帰り道。駅へ向かう途中の横断歩道で、信号が青に変わるのを待っていると……。
「橘さん」
 耳慣れた声に振り向くと、隣に篠宮さんが立っていた。
 会社からここまでの道を同じタイミングで歩いていたのだろうか。少し汗をにじませながらも、彼はいつもと同じ穏やかな笑みを浮かべている。
「今日、頑張ってたね。残業にならずに終わってよかった」
「あ……はい。ありがとうございます」
 距離を置こうと心に決めていたのに、声をかけられると緊張でうまく話せない。
 無言のまま歩き出すと、彼は自然に歩調を合わせてきた。
「橘さん、最近ちょっと疲れてるんじゃない?」
「えっ……そう見えますか?」
「うん。無理してる顔してる」
 心配そうにのぞき込む瞳に、思わず視線を逸らした。胸の鼓動が早まって、うまく呼吸ができない。気を抜けば、このまま惹かれてしまう。
 ――でも、駄目。
 彼がもし御曹司なら、私のような平凡な人間が踏み込んでいい世界の人じゃない。
 翌日。資料室で書類を探していたとき、ふと足音が近づいてきた。振り向けば、篠宮さんが立っていた。
「探し物?」
「はい……部の会議で使う資料なんですけど、どこにしまったのか思い出せなくて」
「それなら、こっちだよ」
 彼は迷いなく棚を開け、目的の資料を取り出してくれた。受け取るとき、指先がかすかに触れる。その一瞬の温もりに、胸が熱くなった。
「……ありがとうございます」
「どういたしまして」
 柔らかな笑みを向けられて、思わず目を逸らした。
 気づかれないようにと願ったのに、篠宮さんは小さくため息をついた。
「最近、俺を避けてる?」
「――え?」
 心臓が凍りついた。図星を突かれて、言葉が出てこない。
「もしかして、何か気に障ることをしたかな」
「い、いえ! そんなことありません」
 慌てて否定したけれど、彼の目は笑っていなかった。優しさの奥に、強い光が宿っている。
「橘さん」
「……はい」
「俺のこと、誤解してるんじゃない?」
 低く落ち着いた声が、資料室の静けさに響く。その瞬間、背筋にぞくりとした感覚が走った。
「誤解……ですか?」
 震える声で問い返すと、篠宮さんはほんの少し口元を緩めた。けれどその笑みは、普段の柔らかさとは違う。どこか鋭さを帯びていて、胸の奥をざわつかせる。
「うん。橘さんが俺をどう思ってるのか……すごく気になる」
「……どうって……」
「ただの“優しい同僚”だと思われてるなら、ちょっと心外かな」
 静かな資料室に、その言葉が落ちた。胸の奥で何かが弾けるような音がして、思わず息をのんだ。
「ち、違います! そんなつもりじゃ……」
「じゃあ、どういうつもり?」
 じっと射抜くような眼差し。普段の爽やかな笑顔しか知らなかった私は、その視線に抗うことができなかった。
「……すみません。ちょっと、いろいろ考えてしまって」
「“いろいろ”って、噂のこと?」
 図星を刺され、言葉に詰まる。
 篠宮さんは、私の反応を見て小さく笑った。
「やっぱり。……気にしてたんだね」
 次の瞬間、彼は一歩近づいた。狭い資料室でその距離が縮まると、息苦しいほどの存在感に包まれる。
「俺が何者でも、橘さんには関係ない。少なくとも、俺にとっては」
「……え?」
「大事なのは、俺が君をどう思ってるか……だろ?」
 低く囁かれた言葉に、心臓が破裂しそうになった。答えられずにいると、遠くで誰かの足音が響いた。ハッとしたように彼は距離を取り、何事もなかったかのように微笑む。
「――またあとで」
 そう告げて部屋を出ていく背中を、呆然と見送った。
 残された私は、熱を持った頬を両手で押さえるしかなかった。
 数日後。課内の打ち合わせで彼と並んで座ると、いつも通りの柔らかな笑顔を向けられた。
 けれど私の胸は、以前のようには落ち着いてくれない。噂と、あの日の言葉と、真剣な眼差しが頭から離れなかった。
 ――篠宮さんは、本当は何者なのだろう。
 ――そして、どうして私にあんなことを言ったのだろう。
 答えを出せないまま、私は彼を避けることもできずに日々を過ごしていた。
 金曜の夜。仕事を終えて会社を出ると、篠宮さんが正面玄関で待っていた。ライトに照らされた横顔は、どこか凛々しくて近寄りがたい。
 なのに……私を見るとすぐに微笑んだ。
「お疲れさま。よかったら駅まで一緒に行かない?」
 断ろうと口を開いたけれど、その柔らかな笑みに逆らえず、結局並んで歩き出してしまう。
「最近、忙しかったね」
「……そうですね」
「無理してない? 俺、君が倒れたりしたら困る」
 気遣うような言葉に、また胸が揺れた。御曹司だとか噂だとか、そんなことより――彼が私を特別に思っているように聞こえてしまう。
(……だめ。勘違いしちゃだめ)
 必死に自分を抑えながら、信号が変わるのを待った。
 そのとき……。
「橘さん」
 真剣な声に顔を向けると、篠宮さんがじっとこちらを見ていた。
「今度の週末、少し時間ある?」
 唐突な誘いに、心臓が跳ねる。返事を迷う私に、彼は少しだけ声を落とした。
「話したいことがあるんだ」

 第2章 隠された正体
 週末の待ち合わせ場所は、会社近くの小さなカフェだった。橘真琴は、心臓が早鐘のように打つのを感じながら、窓際の席に座った。
「来たね」
 篠宮怜司は、いつも通りの穏やかな笑みで私を見下ろした。けれど、どこかいつもより引き締まった雰囲気が漂っている。
「……話したいことって、何ですか?」
 緊張で声が少し震えた。
 返ってきたのは、彼の低く落ち着いた声だった。
「橘さん、俺のこと……どう思ってる?」
 ――この問いに、心臓が跳ねる。ただの同僚だと思っていた自分の中で、胸の奥がざわつく。
「え……?」
「俺がただの同僚だと思われてるなら、そろそろ正直にしようと思って」
 その言葉に、真琴は思わず息を飲んだ。
 ――どうして、彼はそんなに真剣なのだろう。そして、なぜ今、こんな風に向き合うのだろう。
「……どういうことですか?」
「実は……」
 篠宮さんは深く息をつき、目を伏せる。
「俺、会社の御曹司なんだ」
 一瞬、言葉が耳に入らなかった。
 御曹司――つまり社長の息子。でも、これまで一緒に働いてきた彼は、ただの同僚としてしか見えなかった。
「……え、嘘……」
「本当だ。噂で聞いたんだろう?」
 優しい微笑みの裏に、確かな決意を感じる。
「どうして……私に隠していたんですか?」
「君が気にすると思ったから」
 篠宮さんは真剣に私を見つめた。
「橘さんには、俺の立場なんて関係ない。大事なのは、俺が君をどう思ってるかだ」
 その瞬間、心の奥の何かが溶けるような気がした。ただの同僚だと思っていた彼は、私にとって特別な存在だったのだと改めて気づく。
「……それって、つまり……」
「俺は、君のことを……ずっと、特別に思っていた」
 篠宮さんの言葉は、胸の奥まで響いた。
 そして、ふとした拍子に彼の手が私の手に触れた。その温もりに、思わず息が詰まる。
「……どうしよう、私」
「俺の気持ち、受け止めてもらえますか?」
 その問いに、橘は静かに頷いた。これまでの平凡な日常が、一気に色づき始める瞬間だった。
 その後、篠宮さんは秘密を明かしながらも、会社では相変わらず同僚として振る舞った。

 しかし、二人の距離は急速に縮まっていった。昼休みの些細なやり取り、資料の受け渡し、目が合うだけで心臓が高鳴る瞬間――。秘密を知ったことで、恋が一気に動き出したのだ。
 橘は思った。秘密があるからこそ、こんなにも胸がドキドキするんだ、と。
 週明け、会社でのやり取りも微妙に変化していた。
 篠宮さんは相変わらず優しいままだけれど、その視線は以前より熱を帯び、橘だけに向けられていることがわかる。同僚たちには気づかれないように、けれど確実に、二人の距離は近づいていた。
 その夜、橘は帰宅途中に思った。
 ――秘密があるからこそ、恋は動き出すんだ、と。
 これから何が起こるのかはわからない。でも、確かな胸の高鳴りと、甘くて少し切ない予感だけは、紛れもなく現実だった。

 第3章 もう一つの秘密
 週末、橘真琴は篠宮怜司に呼ばれ、会社から少し離れた静かな公園へ向かった。桜の木々がほんのり色づく夕暮れ時。誰もいないベンチに二人は腰を下ろす。
「橘さん、もう一つ、君に話しておきたいことがある」
 篠宮さんは真剣な顔で私を見つめてきた。さっき告げた御曹司という事実とは違う、もっと個人的な秘密だとわかる。
「……何ですか?」
「俺たち……実はもう、法的には夫婦なんだ」
 言葉が耳に届いた瞬間、思わず息をのむ。
 ――夫婦? 冗談、じゃない……よね?
「え……どういうことですか?」
 動揺する私に、彼は静かに微笑みながら説明を始める。
「以前、二人で冗談半分で婚姻届を提出したこと、覚えてる?」
「え……覚えて……ない……」
「そう、でもその届は有効だったんだ」
 静かに言葉を紡ぐ彼の瞳は真剣で、優しく、そしてどこか甘い。
「……それって、つまり……私は……」
「君は、俺の妻だ」
 低く響く声に、胸が高鳴る。今まで“同僚”として見ていた彼が、私にとって完全に特別な存在になった瞬間だった。
 その秘密を知った瞬間、橘の心は大きく揺れた。同僚としての距離感、御曹司としての立場……すべてが一気に変わっていく。そして、篠宮の目にある執着の光を、否応なく感じてしまう。
「ずっと、君を見てきた。誰よりも、ずっと」
 その言葉に、思わず涙が滲んだ。優しい笑顔の裏に隠されていた、強い想い。そして、ただの同僚だと思っていた時間も、すべては彼の愛の中に含まれていたのだと知った。
「……怜司さん……」
「俺だけの橘さんだ。誰にも渡さない」
 低く囁かれる声が、体の奥まで響く。
 その夜、橘は自分の部屋で考え込んでいた。
 御曹司であり、秘密の夫である彼――日常では同僚として振る舞いながら、心の奥では自分だけを見つめる。その二重構造が、なぜか胸をくすぐるように甘く、そしてドキドキさせる。
(……秘密があるからこそ、恋はこんなにも動くんだ)
 橘は改めて、自分の心に湧き上がる感情を認めた。そして、彼の全力の愛を受け入れる覚悟を少しずつ決めていった。
 翌日、会社での二人は普段通りの同僚の顔をしていた。
 けれど互いの心の奥では、もう“夫婦”としての絆が芽生えている。仕事中の小さな触れ合い、目が合っただけで伝わる想い――秘密は、二人を結びつける強い力になっていた。

 第4章 溺愛の告白
 月曜の朝。会社に入ると、部署がざわついていた。急なクライアント対応で、資料の不備が発覚したらしい。
「橘さん、至急で資料を整えてほしい」
 上司に声をかけられ、慌てて資料を確認した。
 けれど心臓の奥で、ひとつの安心感が芽生えていた。――篠宮さんがそばにいる。
「橘さん、大丈夫?」
 背後から低く柔らかい声。振り向くと、篠宮さんがいつもの穏やかな笑顔で立っていた。だが、その瞳には普段の柔らかさに加えて、強い決意と執着が宿っている。
「え……はい、でも少し手間取りそうです」
「俺が手伝う」
 そう言って彼は資料を受け取り、さっと手際よく整理していく。社内では誰も気づかないように、
 でも私だけに向けられた視線。胸の奥が熱くなる。
 資料の整頓が終わると、篠宮さんは私を外に呼び出した。近くの屋上。風が心地よく吹き抜ける。ここなら誰にも邪魔されない。
「橘さん、今日、伝えたいことがある」
 彼の言葉に、胸が高鳴る。何を言われるのか、ドキドキが止まらない。
「俺は……君を守りたい。何があっても、絶対に」
 低く響くその声に、思わず涙が浮かぶ。
 これまでの優しさも、御曹司の立場も、秘密の夫婦関係も――すべて、彼の愛の一部だとわかった。
「篠宮さん……」
 息を詰める私に、彼はそっと手を伸ばし、指先で頬を撫でた。その温もりに、胸の奥がじんわりと満たされる。
「橘さん、俺の妻として、これからもずっとそばにいてほしい」
 低く囁かれる言葉は、ただの同僚や恋人の告白とは違う、深い誓い。秘密の二重構造が、二人の絆をより強くしている。
「……はい、ずっと一緒に」
 思わず頷いた瞬間、篠宮さんは笑みを浮かべ、そっと唇を重ねてきた。優しく、甘く、でも確かな熱を帯びたキス。胸の奥まで満たされる幸福感に、思わず目を閉じた。
 その後、会社ではいつも通りの同僚として振る舞いながら、二人だけの秘密の世界では、溺愛と安心に包まれた夫婦生活が始まった。
 資料の受け渡し、ちょっとした視線のやり取り、帰り道の並歩き――どれもがドキドキと甘さを伴い、日常が特別なものに変わっていく。
(秘密があるからこそ、恋はこんなにも動き出すんだ)
 橘は改めて実感した。
 秘密が、二人を結びつけ、互いの愛を強める――これからも、篠宮さんと一緒なら、何があっても大丈夫。
 穏やかな夜風に吹かれながら、橘は微笑む。溺愛に包まれた日々は、ここから始まる。

 エピローグ
 社内では普通の同僚、二人だけの世界では秘密の夫婦。篠宮怜司の優しさと熱い想いに包まれ、橘真琴は心も体も甘く満たされる。誰にも知られない秘密の関係が、二人を強く結びつけ、恋を加速させる。資料の受け渡しや目が合うだけで胸が高鳴る日常も、二人にとっては特別な時間だった。
 秘密があるからこそ、溺愛もドキドキも輝くのだろう。橘はそっと微笑み、これからも篠宮と共に、甘く幸せな日々を歩んでいく。



< 1 / 1 >

ひとこと感想を投票しよう!

あなたはこの作品を・・・

と評価しました。
すべての感想数:0

この作品の感想を3つまで選択できます。

  • 処理中にエラーが発生したためひとこと感想を投票できません。
  • 投票する

この作家の他の作品

公開作品はありません

この作品を見ている人にオススメ

読み込み中…

この作品をシェア

pagetop