5分だけのデート ―時給10,000円のボディーガード―




『時給一万円で、あなたを雇っていいですか?』

 もしこんな求人広告が出ていたら、応募するだろうか?
 俺は見向きもしない。いくら何でも怪しすぎる。
 どこを向いても不景気の風しか吹いてないこのご時勢、そんなに上手い話があるわけないだろ? そんなことは、当年取って一七歳・高校二年生の俺でも分かる。
 ひとたび雇用契約を結んだら、一時間に一万円もらえる代わりに、おんぼろ漁船でオホーツク海に放り出されるのがオチだ。あるいは、眠らされたと思ったら臓器がなくなっていた……なんていう都市伝説みたいなオチが待っているに決まってる。
 ちなみに、高一の夏休みにやった市民プールの監視員のバイトは、時給にして一時間千円だった。
 今、俺が我が物顔で居座ってるここ『喫茶店・チャンドラー』に至っては、アルバイトの時給が八百五十円というリーズナブル価格だ(ただし、雇用側にとっての)。
 もっとも、この店は滅多に混まないので、バイトの店員など必要ないんだがな。
「ほらよ大輔(だいすけ)、いつものやつな」
 俺のテーブルに、黒褐色の液体が入ったグラスが置かれた。チャンドラーの名物、深煎り水出しアイスコーヒーだ。
 名物なだけあって、これがなかなかの絶品。香ばしさとコクを冷たさが引き立てて、何ともいえず美味い。
 グラスを運んできたのは、この店のたった一人の店員兼マスターだ。
 ひょろりと背の高い髭面の、四十過ぎのオッサンである。マスターはマスターであって、本名は知らない。
「相変わらず暇そうだねぇ、大輔。そんなことじゃ、青春はあっという間に逃げてくぜ」
 マスターは俺を見下ろしながら、へらへらっと笑った。
 一応俺は客なんだが、この髭面のオッサンはいつもこんな口調だ。毎日のようにここに通ううちに俺とマスターはすっかり顔なじみになり、交わす会話もそれなりにフレンドリーになった。
「暇なのはお互い様だろ。俺が来ないと、マスターだってやることねーじゃん」
「ハハハ。ま、そうなんだけどな」
 店内には、カウンター席が五つと四人掛けのテーブル席が二つある。その中で、日当たりのいい手前のテーブル席が俺の定位置だ。
 少し前に肘を痛め、所属している柔道部を休んでいる俺は、放課後の時間をここで過ごしている。
 コーヒーアロマに包まれた、優雅な勉強タイム。まぁ『時々』脱線もするが……決して暇だから来てるわけじゃねーぞ。
 そもそもこの店は、はっきり言ってあんまり流行ってない。
 マスターが好きなハードボイルド小説を書いた作家から店名を取ったのはまあいいが、メニューもハード路線なのが敗因だと思う。
 何せ、コーヒー専門を頑なに貫いていて、それ以外は出さない。
 しかも、メニューには豆の名前が横文字で書いてあるだけという不親切設計。店の内装も外装も古めかしく、初めて来る客はまず『開いてるのか、ここ』と思うだろう。
 特に俺みたいな高校生にとっては、放課後に喉を潤すならファーストフード店で十分だし安上がりだ。
 なのにあえて俺がこの店を選択する理由は一つ。好き勝手に長居していても追い出されない点に尽きる。
 駅前のファーストフード店には『勉強・昼寝はご遠慮願います』という薄っぺらい紙が貼ってある。
 ご遠慮願います、なんて思慮深げな書き方をしているくせに、長居すると容赦なく叩き出すという矛盾が気に入らない。
 その点、チャンドラーは鷹揚だ。滅多に客が来ないから、長居し放題だしな。
 最初に店のドアを開けるまでは勇気がいるが、一度入ってしまえばこっちのもの。今ではすっかりここで暇つぶし……じゃなく、勉学に勤しむのが俺の日常になっている。
「たまには女の子でも連れてこいよ。ロマンスまだかい……って、大輔にゃ無理か」
「うるせーな。マスターだっていい歳して独身だろ」
 それにこうして、暇なマスターの相手もしなくてはいけない。俺がここにいるのは、実に合理的だと我ながら思う。
「そうだ。新しい豆を仕入れたんだ。よかったら大輔に試飲してほしいんだが」
「おう了解」
「じゃ、挽いてくる。じっくり淹れたいからちょっと時間くれ」
 新商品の試飲は常連の特権だ。ありがたく享受しておこう。
 マスターがカウンターの奥に引っ込んでいったので、俺は再び机上の教科書……の横にあるマンガ本に目を落とした。
 遊んでるわけじゃねーぞ。日本のマンガは素晴らしい文化だ。ちゃんと読めば立派な勉強になる。
 というわけで、しばらくは『海賊たちが暴れ回るマンガ』に没頭……するつもりだったが、すぐに飽きて眠くなってきた。
(時間的に……今は乱取りでもしてる頃か)
 窓の外を見ていたら、欠伸に交じって溜息が漏れてくる。
 本当は今頃、柔道部のメンツと夏の個人戦に向けて練習に励んでいるはずだった。
 だが、三月の末に肘を痛めて以来、俺は医者から部活動を止められている。あれから二か月も経っていて、痛みなど全然ないのに、ドクターストップはまだ継続中だ。
 昨日、近所の整形外科に行ったら、白髪交じりの老医師ろうせんせいが俺の顔を見てこう言った。
「肘はじっくり治さないと、すーぐ再発する。ま、しばらくはのんびりすることだなぁ」
 その理屈は分からないでもないが、のんびりするにもほどがある。
 じきに六月だ。三月末からずっと畳を踏んでいない。下半身の筋トレはしているが、柔道はやはり実戦がモノを言う。
 俺が柔道を始めたのは、警察官である親父と祖父ちゃんの影響だった。母ちゃん曰く、物心つく前から柔道着を被って畳の上を転がってたらしい。
 高二の現在、俺の身長は百七十五センチで、体重は六十五キロあたりを行ったりきたり。
 柔道部のメンツの中じゃ小柄だが、それでも代表で団体戦に出られるくらいの位置にはいる。体格で劣る分、練習でカバーしてきたつもりだ。
 それが今は、乱取りさえできないのがもどかしい。
 このままでは、確実に他の部員に置いていかれるだろう。夏の大会は仕方ないが、こんな調子じゃ秋の大会さえ出場が怪しい。
 痛めた肘の完治が優先なのは分かる。だが、待つだけの日々にはもうウンザリだ。何かをして気を紛らわせればいいんだが、柔道ばっかりやってた俺には他に打ち込めることなんてない。
(暇すぎる……)
 そう。要するに退屈なんだ、俺は。
 俺から柔道を取ったら何も残らない。全部で百巻近く出ている海賊マンガもおおかた読みつくし、今手元にあるのが最新刊だ。
 そもそも、マンガばかりで飽きてきた。だったら勉強すりゃいいんだが、教科書なんて、俺にとっては安全な睡眠薬と同じようなものだしな。
 もはや、手負いの俺にできることなんて何もないのかもしれない。
東川高校(ひがしかわこうこう)二年A組、須崎大輔(すざきだいすけ)さん」
 俯きかけた俺は、そんな声でハッと我に返った。
 高く澄んでいて、心の奥に染み込んでくる……いわゆる、鈴を転がすような声ってやつだ。
「須崎大輔さん」
 そんな声で再び名前を呼ばれ、顔を上げると、まず黒く長い髪が目に入った。
 紺色のブレザーとチェックのスカートを纏った小柄な身体に、銀フレームの小ぶりな眼鏡。そのレンズ越しに、大きな瞳がじっと俺を見つめている。
「須崎大輔さん――時給一万円で、あなたを雇っていいですか?」
 少女の言葉が耳に届く。聴覚で受け取ったそれは、脳に送られ解析される。
 一連の作業のあと、俺の口から出た言葉はこれだった。
「………は?」
 俺の思考回路は今、この文字と記号で占拠されている。
 は? は? は?
 時給一万円、黒髪メガネの少女、そして俺。
 これらが全くを持ってかみ合わない。考えれば考えるほど脳内に「は?」が充満し、ゲシュタルト崩壊を起こしていく。
「須崎さん。唐突で申し訳ありません。私に雇われていただきたいんです。時給一万円、お支払い致します」
「…………はぁぁ?」
 鈴を転がすような声は、更にトンチンカンな言葉を続けた。
(俺の身に、何が起こってるんだ……)
 とうとう「は?」のゲシュタルト崩壊を通り越し、俺の脳内は真っ白になる。
 そのまま、しばしの間が訪れた。
「おぉっ、やっと見つけたぞ!」
 俺と少女の間に広がる珍妙な空気をぶち破ったのは、カランカランという陽気な音と、男の怒鳴り声だった。
 カランカランと鳴っているは店の入り口に取り付けられたベル。怒声の主は、何やら洒落たシャツを着た男だ。
「手間かけさせないでくれよ、トウカ。今日こそOKしてくれ」
 男はチャンドラーの薄っぺらいドアを開け放ち、そこに仁王立ちしている。どう見ても喫茶店に一服しにきたという感じではない。
「いらっしゃ……い?」
 間抜けなウエルカムコールをしたのはマスターだった。
 さっきからカウンターの奥でコーヒーの焙煎に熱中していたが、ようやく店内の異様な雰囲気に気が付いたのか、その場で呆然と立ち尽くしている。
「須崎さん」
 黒髪メガネ少女が俺の耳元に突然顔を寄せた。
「時間がありません。私に雇われてください。お願いします」
 言っておくが、俺は物心ついた頃から柔道に打ち込んできた。それ以外は、見向きもしなかった。
 そりゃ時々は『あの子かわいいな』と思ったりしたぞ。だが残念なことに、俺と女子との間には、常に厳しい柔の道が横たわっているんだな、これが。
 決してモテないとか、そういうんじゃねーぞ(と信じたい)!
 そんな俺のすぐ傍に、華奢な身体がある。
 両手ですっぽり包めそうなほど小さい顔は人形みたいに整っていて、さらりと流れた黒髪からは、何だか甘い匂いが……。
 だからその、そんなに近づいて頼みごとをされるとだな、こう、不必要に動悸が……。
「須崎さん、お願い。……助けて」
「…………!」
 結論として数秒後、俺は黙って頭を縦に振っていた。
 店の入口に立っていた男が割り込んできたのは、その直後だ。
「トウカ。オレの想いは伝わっているはずだろ! 今日こそ返事をくれ!」
 近くで眺めてみると、洒落たシャツの男は、俺や黒髪メガネ少女より五歳ほど年上に見えた。長めの茶色い髪にはパーマが当てられているのか、やたらくるくるしていて鬱陶しい。洒落たシャツはおそらくブランドものだろう。首元には金のネックレスが覗き、腕には明らかに高そうな時計が嵌められている。
 そんな出で立ちの男は、海中を漂うワカメみたいに身体をくねくねさせながら言った。
「トウカを心から愛せるのはオレだけだ。この熱い愛に答えてくれ。二人で手を取り合って愛の園へ――失楽園を目指そう」
 げ、サムっ!
 何だこの台詞。サムすぎる。ついでに言うなら、失楽園のラストはああなってああなるが……それでいいのか?
 もっとも俺が知ってるのは、かなり前に放映されてたドラマ版だけどな。母ちゃんが見てたDVDを何となく横から眺めてたら、熟女のお色気シーンが素晴らしく……いや、文学的な愛の形にいたく感動した。
「なぁトウカ。オレと一緒に、失楽園へ行ってくれ!」
 洒落たシャツの男が、再び薄気味悪い台詞を口にする。
「お断りします」
 黒髪少女は即答してこっちに向き直り、俺の腕を取って立たせた。
「残念ですが、私にはすでに付き合っている男性がいます。……ご紹介します。こちら、彼氏(・・)の須崎大輔くんです」
 はぁ?
 という声は驚きすぎて出てこなかった。俺の脳は考えることを放棄したようだ。
 少し遅れて、カウンターの奥で派手な音がした。マスターが驚いて何かをひっくり返ったらしい。
 分かるぜ、マスター……。突然彼氏になったこの俺が、一番驚いてる。
「今からデートなんです。さぁ、すざ……大輔さん、荷物をまとめて。行きましょう」
 下の名前を呼ばれてちょっと胸が高鳴ったが、俺の思考回路はほぼ停止していた。
 もう、言われる通りにするしかない。できの悪いロボットみたいにぎくしゃくしながら荷物をカバンに突っ込み、テーブルにコーヒー代の五百円玉を置く。
 そのまま、チャンドラーをあとにした。洒落たシャツ男の「なっ」とか「待て」という言葉をまるっと無視して。
「駅の方ほうまで歩きましょうか、須崎さん」
 店を出てもまだ、俺の腕には小柄な少女がぶら下が……いや、くっついていた。斜め下二十センチのところから俺を見上げるその顔は、やはり整っている。
 なるほど、これが彼氏ビジョンというやつか。小首を傾げるような仕草といい、白目が見えすぎない上目遣いといい、どこを取っても完璧だ。まさに、理想のアングル。
 ……などと分析する余裕は、この時の俺にはなかった。
 言われるまま、小柄な女子に引きずられるような格好で歩くのが精一杯。そうこうしてる間にも、腕にますます力が加わる。
「そ、そんなにひっつくなよ」
「お静かに。少しのことなので我慢してください」
「だいたいお前、誰なんだよ。名前は?」
「ですから、お静かに」
「名前くらい教えてくれよ」
「……トウカです。透明な花と書いて、透花」
 透花と名乗ったその少女は、俺の腕にしがみついたまま耳元に顔を寄せた。
「少しだけでいいんです。彼氏のフリ・・をしてください」
「ふ、フリ?!」
「『未成年のための彼氏・彼女マニュアル』によると、交際中の男女はこのぐらい腕を絡めるのが自然なのだそうです。下の名前で呼び合った方ほうがいいらしいので、先ほどはそうお呼びしました。ですから、もっとくっついてください」
「何なんだよ、そのナントカマニュアルって!」
「あとでご説明します。このまま少し歩きましょう」
 透花は俺の腕を半ば締め上げるような勢いで、身体を密着させてきた。
 ――むにゅ。
 その瞬間、俺の肘に、本日一番柔らかい感触が……。
「…………!!」
 異様な柔らかさの正体気付いた途端、心拍数が跳ね上がる。
 反射的に身体を引こうとしたが、透花がそれを止めた。
「あっ、待って、離さないで。このままでいてください!」
 おいおい、何なんだこの台詞は。少女漫画かよ(読んだことねーけど)。
 たじろぐ俺をよそに密着度はさらに増し、マシュマロみたいに柔らかい『ソレ』がさらに押し当てられる。
(これはC、いやDカップか……?)
 ……とか考えてる場合じゃねぇ! マズい。マジでマズい!
「須崎さん」
 主に煩悩的な意味でパニック寸前になっている俺の横で、透花は冷静な声で囁いた。
「このまま彼氏のフリを続けてください。そのために私は須崎さんを雇ったんですから。――時給一万円で」

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