不幸を呼ぶ男 Case.2
【警視庁捜査一課】
霞が関に聳え立つ、警視庁本部。その中枢である捜査一課のフロアは、深夜にも関わらず、男たちの低い怒号と、タバコの煙、そして張り詰めた緊張感で満たされていた。その中心にいるのは、石松だった。彼は、自らのデスクで腕を組み、ただ一点、黒い電話機を睨みつけていた。タワーマンションに家宅捜索という名の奇襲をかけてから、すでに一時間が経過している。まだか。上からの横槍は、もうそこまで来ているかもしれないのだ。
その時だった。静寂を切り裂くように、デスクの電話がけたたましく鳴り響いた。
フロアにいた全員の視線が、一斉に石松へと突き刺さる。彼は、まるで獲物に飛びかかる獣のように、受話器をひったくった。
「俺だ!どうだった!」
電話の向こうから聞こえてきたのは、現場にいる若手刑事の、興奮で上ずった声だった。
『石松さん!出ました!やりましたよ!』
石松は、受話器を握りしめる手に、ぐっと力を込めた。
『ヤツのウォークインクローゼットにあった、ブランド物のジャケットの内ポケットから!吸引に使ったとみられるストローと一緒に、MDMAの粉末が付着したビニール袋を発見しました!量はわずかですが、現行犯とほぼ同じです!』
「よっしゃあ!」
石松の咆哮が、捜査一課のフロア全体に轟いた。デスクを力任せに叩き、その衝撃で安物のペン立てが床に転がる。部下たちが、おお、と歓声ともどよめきともつかない声を上げた。これで、あのお坊ちゃんを言い逃れできない殺人容疑で起訴できる。桐生院彩音の権力をもってしても、現物の証拠の前では手も足も出まい。長年の、胸のつかえが、ようやく取れる。
だが、その勝利の雄叫びは、背後からかけられた冷たい声によって、一瞬にして凍りつかされた。
「少し、いいか。石松」
振り返ると、そこに立っていたのは、捜査一課を束ねる課長だった。綺麗に糊のきいたシャツを着こなし、現場の汗の匂いではなく、政治の匂いをさせる男。
「課長。今、いい報告が」
「その件だ」と、課長は石松の言葉を遮った。彼は、部下たちが聞き耳を立てているのを気にするように、石松をフロアの隅へと促す。そして、他の誰にも聞こえないよう、声を潜めて言った。
「その捜査は、これ以上するな。もう、手を引け」
石松は、一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
「…は?今、なんて言いました?」
「聞こえなかったのか。その件は、終わりだと言ったんだ。桐生院琉星は、間も無く釈放される」
「ふざけるな!」
石松の怒鳴り声が、再びフロアに響き渡った。もはや、他の刑事に聞かれることなど、どうでもよかった。
「被害者がいるんですよ!死んでるんだ!それに、今、現場からブツが出たと連絡があったばかりだ!なぜ、ここで捜査を止める必要がある!」
「上からの指示だ」
「その上っていうのは、どこの誰だ!桐生院彩音か!」
課長は、石松の激情を、冷たい目でいなした。
「お前も、この組織にいるなら分かるだろう。俺たちには、逆らえない相手がいる。この件をこれ以上追えば、お前の警察官人生が終わる。クビになりたいのか、石松」
それは、静かな、しかし絶対的な脅迫だった。正義など、巨大な権力の前では何の役にも立たないのだと、そう言っている。
石松は、目の前の男を、そしてその向こう側にいる見えざる敵を、憎悪に満ちた目で見つめた。そして、数秒の沈黙の後、彼は、ふっと自嘲するような笑みを浮かべた。
「…なるほどな」
彼は、もうこの男と話しても無駄だと悟った。
石松は、課長に背を向けると、自分のデスクからジャケットをひっつかんだ。
「おい、どこへ行く気だ!」
「次のステップですよ」
石松は、吐き捨てるように言った。
「あんたたちが捜査を止めるなら、俺は俺のやり方で、ヤツを地獄に叩き落とすまでだ」
課長の制止を振り切り、石松は捜査一課のフロアを後にした。彼の頭の中には、すでに次の一手があった。公式の捜査が打ち切られる前に、掴んだ証拠を、ある場所へリークする。そこは、桐生院彩音の権力でさえ、完全にはコントロールできない場所だった。
霞が関に聳え立つ、警視庁本部。その中枢である捜査一課のフロアは、深夜にも関わらず、男たちの低い怒号と、タバコの煙、そして張り詰めた緊張感で満たされていた。その中心にいるのは、石松だった。彼は、自らのデスクで腕を組み、ただ一点、黒い電話機を睨みつけていた。タワーマンションに家宅捜索という名の奇襲をかけてから、すでに一時間が経過している。まだか。上からの横槍は、もうそこまで来ているかもしれないのだ。
その時だった。静寂を切り裂くように、デスクの電話がけたたましく鳴り響いた。
フロアにいた全員の視線が、一斉に石松へと突き刺さる。彼は、まるで獲物に飛びかかる獣のように、受話器をひったくった。
「俺だ!どうだった!」
電話の向こうから聞こえてきたのは、現場にいる若手刑事の、興奮で上ずった声だった。
『石松さん!出ました!やりましたよ!』
石松は、受話器を握りしめる手に、ぐっと力を込めた。
『ヤツのウォークインクローゼットにあった、ブランド物のジャケットの内ポケットから!吸引に使ったとみられるストローと一緒に、MDMAの粉末が付着したビニール袋を発見しました!量はわずかですが、現行犯とほぼ同じです!』
「よっしゃあ!」
石松の咆哮が、捜査一課のフロア全体に轟いた。デスクを力任せに叩き、その衝撃で安物のペン立てが床に転がる。部下たちが、おお、と歓声ともどよめきともつかない声を上げた。これで、あのお坊ちゃんを言い逃れできない殺人容疑で起訴できる。桐生院彩音の権力をもってしても、現物の証拠の前では手も足も出まい。長年の、胸のつかえが、ようやく取れる。
だが、その勝利の雄叫びは、背後からかけられた冷たい声によって、一瞬にして凍りつかされた。
「少し、いいか。石松」
振り返ると、そこに立っていたのは、捜査一課を束ねる課長だった。綺麗に糊のきいたシャツを着こなし、現場の汗の匂いではなく、政治の匂いをさせる男。
「課長。今、いい報告が」
「その件だ」と、課長は石松の言葉を遮った。彼は、部下たちが聞き耳を立てているのを気にするように、石松をフロアの隅へと促す。そして、他の誰にも聞こえないよう、声を潜めて言った。
「その捜査は、これ以上するな。もう、手を引け」
石松は、一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
「…は?今、なんて言いました?」
「聞こえなかったのか。その件は、終わりだと言ったんだ。桐生院琉星は、間も無く釈放される」
「ふざけるな!」
石松の怒鳴り声が、再びフロアに響き渡った。もはや、他の刑事に聞かれることなど、どうでもよかった。
「被害者がいるんですよ!死んでるんだ!それに、今、現場からブツが出たと連絡があったばかりだ!なぜ、ここで捜査を止める必要がある!」
「上からの指示だ」
「その上っていうのは、どこの誰だ!桐生院彩音か!」
課長は、石松の激情を、冷たい目でいなした。
「お前も、この組織にいるなら分かるだろう。俺たちには、逆らえない相手がいる。この件をこれ以上追えば、お前の警察官人生が終わる。クビになりたいのか、石松」
それは、静かな、しかし絶対的な脅迫だった。正義など、巨大な権力の前では何の役にも立たないのだと、そう言っている。
石松は、目の前の男を、そしてその向こう側にいる見えざる敵を、憎悪に満ちた目で見つめた。そして、数秒の沈黙の後、彼は、ふっと自嘲するような笑みを浮かべた。
「…なるほどな」
彼は、もうこの男と話しても無駄だと悟った。
石松は、課長に背を向けると、自分のデスクからジャケットをひっつかんだ。
「おい、どこへ行く気だ!」
「次のステップですよ」
石松は、吐き捨てるように言った。
「あんたたちが捜査を止めるなら、俺は俺のやり方で、ヤツを地獄に叩き落とすまでだ」
課長の制止を振り切り、石松は捜査一課のフロアを後にした。彼の頭の中には、すでに次の一手があった。公式の捜査が打ち切られる前に、掴んだ証拠を、ある場所へリークする。そこは、桐生院彩音の権力でさえ、完全にはコントロールできない場所だった。