ニセモノ王子(プリンス)
 俺は決してストーカーではない。
 断じて、ストーカーなんかじゃない。
 俺はそう心の中で繰り返しながら、電柱に隠れつつ彼女の姿を追っている。



 ふわふわボブの彼女の名前を、俺は知らない。だが、ここから二駅先にある山吹(やまぶき)高校の生徒だということくらいは、制服を見ればわかる。
 なぜ、面識のない女子の後をつけているのか。それは、この辺りが物騒なことに由来する。
 俺の住む閑静な住宅街に、最近、痴漢(ちかん)が出たのである。街灯が少なく人通りもないせいか、昔から時々思い出したように出るのだが、そんな場所を、彼女は一人で歩くのだ。
 塾に向かうときはまだしも、帰りは暗い。変態が陰に潜んでいても、近くに行くまで気づけない。
 と、いうわけで、俺は仕方なく、彼女を遠くから見守ることにしたのである。
 ――そう。ただ見守って、無事に駅の構内に入るのを確認するだけだ。彼女の前に現れるつもりもないし、そもそも、認識されるつもりもない。彼女とどうこうなろうなどとは、考えたこともないのである。

(――あ、そういえば……!)

 ふと、あることを思い出して俺は息をのんだ。
 俺も彼女と同じ駅を使って学校へ行く。だから、この道はまさに通学路だ。彼女が今差し掛かろうとしている、長い間無人のままの石垣のあるお屋敷。その敷地に沿って続く排水溝の蓋が、今朝見たら壊れていたのである。
 穴の大きさはそれほどでもない。だが、もし偶然、足を踏み入れてしまったら?
 塾へ向かうときはまだ明るかったから、彼女は気づいたかもしれない。だが、気づいていなかったら大変だ。こう暗くては足元なんかよく見えないし、しかも彼女は、歩きスマホの真っ最中だ。大体、もし気づいていたとしても、塾が終わるまで覚えているかは不明である。
 俺の気持ちを知ってか知らずか、彼女はふらふらと穴の方へ寄って行った。目は、スマホの画面にくぎ付けになっている。

(まずい……!)

 俺は慌てて背後まで近づいた。
 どの位置なのかはっきり覚えていなかったことが悔やまれる。だがおそらく、そろそろのはずだ。
 側溝(そっこう)に落ちたら、きっと怪我をしてしまうだろう。落ちるところまではいかなくても、足を取られたら転んでしまうかもしれない。
 想像したら、心臓がきゅっと縮んだ。

(ど、どうしよう、どうしよう……!) 

 俺は、焦り――、とうとう、足を踏み出した。

「――待っ……、待って!」
「……え?」
「危ないから……!」

 ――そうしてつい、彼女の腕をつかんでしまったのだ……。



「ちっ……、痴漢!?」

 案の定、彼女は驚き、悲鳴を上げた。

「いやあっ、離して……っ!」
「え? いや、待って! あの、俺は、痴漢じゃ――」
「誰か助けてっ! 警察……っ、警察を呼んでくださいっ!」
「――け、警察はやめてええ!」

 パニックに陥った彼女は、俺の話を聞いてはくれなかった。手を無茶苦茶に振り回して、叫ぶ。あまりの振り回しぶりに、細い腕がとれてしまうんじゃないかと心配になったほどだ。
 だったら俺が手を離せばよいのだが、そうしたら彼女は一目散に駅に逃げ込むだろう。
 駅員に(すが)りついて俺を指さす彼女と、警察に連行される俺の姿が脳裏に浮かんだ。

(ひいいっ!) 

 それだけは、何としても避けなければ……!
 彼女に負けず劣らずパニックを起こした俺の頭は、暴投とも言える答えをはじき出した。

「――じ、実は俺、……じゃなくて僕は、お、女なんだ!」
「――へっ……?」

浅緋(あさあけ)高のプリンスとは、この僕のことさ!」

 史上最悪の思い付きだと、上ずった声で名乗りながら思った。



「……浅緋(あさあけ)高の……プリンス……?」

 疑心しかない目の色で、彼女は俺の頭から靴までじろじろと見つめた。
 怪しさ満点なのは自分が一番わかっている。しかし、今更否定するわけにはいかない。そんなことをしたら、余計怪しまれるに決まっている。
 そう思った俺は、嘘を貫き通すことに決めた。今だけ、ここだけ乗り切ればいいのだ。幸いなことに、俺の声は男にしては高い方だった。

「し……、知らないかな!? 結構有名だと思ってたんだけど!」
「……浅緋高校って女子高ですよね……。とてもそうは、見えないですけど……」
「あ、ああ、そうだね。よく言われるよ! 自分で言うのもなんだけど、男にしか見えないと評判でね。だからこそ、プリンスなんて呼ばれてるわけなんだけど……」

 言いながら髪をかきあげ、Tシャツから覗く肉付きの悪い腕をさりげなく見せつける。筋トレの成果が全く出ない生っ(ちろ)い腕に、この時ばかりは感謝した。

「……プリンス……」

 それでも怪訝そうな声音に、俺は口元をひきつらせた。
 浅緋女子を知らない人は皆、そういう反応をする。プリンスなんてばかばかしい、一体いつの時代の話だと。
 俺だって最初はそう思った。だが、浅緋高のプリンスは実在するのだ。何を隠そう、俺の姉貴がそうなのだから。
 俺は分厚い眼鏡をはずしてポケットにしまいながら、(すばる)の奇行と口調を必死に思い出す。
 苦手で避けているせいか、記憶の中の昴にはボヤッと靄がかかっている。細かいところは覚えていないが、イメージだけは思い出せた。
 傲岸不遜(ごうがんふそん)。姉貴を一言で表すとすればそれだ。つまり、偉そうにしていれば、昴に見えるに違いない。俺は胸を張り、顎を上げて彼女を見下ろした。

「うん、君の疑念は正しい。初対面で信じろなんて言う方が無理だろうね。だから、僕が誰かなんて気にしなくてもいいよ。ただひとつ、君にわかってもらいたいのは、僕にやましい気持ちが微塵もなかったことだけさ」

 俺は言葉を切り、適当に側溝を指さした。

「僕が君を呼び止めたのは、そこの――側溝の穴に君が気づいていなかったからさ。落ちて怪我でもしたらと思うと心配で、つい引き留めてしまっただけなんだ。でも、余計なお世話だったら悪かったね」
「…………」
「ついでに、もう一つだけ忠告させてくれ。歩きスマホは危ないよ? 足元も目の前も見えないだろうし、もしかしたら本当に変質者に尾けられていたかもしれない。そこの看板にも書いてあるだろう。周囲にも、ちゃんと注意をした方がいい」
「…………」

 言いたいことは全部言ったが、彼女の反応はない。
 さすがに俺がプリンスだなんて苦しすぎたのだろう。ペラペラと口走ったセリフが恥ずかしすぎる。脂汗も流れてきたし、これは早々に退散した方が良さそうだ。

「じゃ、じゃあ、僕はこれで。駅はもうすぐそこだから。気をつけて帰るんだよ」

 そう言って、俺はくるりと背を向けた。
 男装をしている女子のふりをした変態男とばれる前に、さっさと逃げなければ。
 しかし、足早に歩き出した時、後ろでぽそりと彼女がつぶやくのが聞こえた。

「……あ、ほんとだ、側溝が……!」

(……え?)

「――待ってください、プリンスさん!」

 思わず足を止めると、彼女が小走りで駆け寄って来た。

「私、何も知らず失礼な態度をとってしまって……、ごめんなさい! あと、ありがとうございました!」

 彼女は目の前まで来ると、深々と頭を下げた。俺は信じられない思いで、彼女の後ろ頭をぽかんと見つめる。

(プリンスさんって……。嘘だろ、おい……)

 まさかとは思うが……、俺がプリンスだと、信じてしまったのか。
 こうなると、逆に彼女の素直さが不安になる。痩せているとはいえ、俺だってもう高一だ。さすがに女子に見えたりしないだろう。

(――いや、見えるのか……?)

 そういえば、俺と昴は子どもの頃、そっくりな姉弟だと言われていた。成長するにつれて、身長や顔の華やかさに差が付いてしまい、今や見る影もないのだが。
 しかし、昴と比べられるのが嫌で、顔を隠すために髪を長めに伸ばしている。このくらい暗ければ、少しの時間だけなら女子に見えるのかもしれない。
 ちなみに、子供の頃のことを言うと姉貴に半殺しにされるので、思い出すことはほとんどなかった。

「気にしないで。それじゃあね」

 とりあえず、穏便に収められそうなのでほっとする。俺は安堵と共に、彼女に再度、背中を向けた。
 いろいろあったが、憧れの君を助けられた今日は、最高の日かもしれない。
 感慨深い思いで歩いていると、無防備だった腕を背後から掴まれて、心臓が止まりそうになった。

「……えっ!? あの――?」

 なんだ。やっぱり警察に突き出す気か。一度油断させてからどん底に突き落とすなんて、そんなひどい人だったのか。
 戦々恐々(せんせんきょうきょう)として振り返った俺を迎えたのは、しかし、キラキラした目と弾んだような声だった。

「――あの! もしご迷惑でなければ……、明日、お礼をさせてください!」

 …………。
 …………。

(…………えっ?)



 ……何でこんなことに。
 次の日、俺は、塾から少し離れたところで、塀に寄りかかって彼女を待っていた。
 姉貴の姿をイメージし、眼鏡は外して、髪もセットしてある。しかし、試行錯誤したわりにはお粗末(そまつ)な出来で、できれば人前に出るのは避けたかった。それなのにのこのこと来てしまったのは、彼女の申し出を断ることができなかったからだ。

(お礼なんて、別にいいんだけどなあ……)

 また会ったら、今度こそばれてしまうかもしれないし。
 そうは思うものの、彼女にまた会えるという誘惑には勝てなかった。

「――すみません! 遅くなってしまって……!」

 ドキドキしながら待っていると、彼女の声が聞こえてきた。はあはあと息を切らせながら駆け寄ってくる。
 きっと、教室の中からずっと走ってきたのだろう。会えた喜びより申し訳なさが勝って、つい口調が弱々しくなってしまう。

「ああ、いや、全然気にしないで……。俺――僕こそごめんね。焦らせちゃったみたいで」
「いいえ! 私が、無理やり、お願いしたので……っ」

 彼女は息を整えると、勢いよく頭を下げた。

「あの、昨日は本当にすみませんでした! それで、もし良かったらその……、これ、もらってください!」
「え? えっと……?」

 彼女が差し出したそれは、リボンのついたビニールバッグだった。中には、手作りらしきクッキーが入っている。

(まさか、昨日、家に帰ってからわざわざ作ってくれた……?)

 塾通いでただでさえ少ない彼女の時間を、俺が奪ってしまったのか。
 申し訳なさに拍車がかかった。何とも言えずにそれを見つめていると、彼女が「あっ」と小さく叫んだ。

「ごめんなさい。……迷惑、でしたか?」
「え?」
「やっぱりこういうの、たくさんもらってますよね……? 私のなんか、お礼になるわけ、ないですよね……」

 彼女の声が沈んでいき、肩を落とすのが見えた。俺は慌てて、彼女の手からお菓子を受け取る。
 失敗した。がっかりさせてしまった。プリンスだったら、ためらう素振りなんか見せずに、ありがたく受け取るべきだった。

「い、いや、迷惑だなんて、そんなことあるはずないだろう! ありがとう、嬉しいよ」
「……ほ、本当ですか……?」
「あ、当たり前だろう! 君が心を込めて作ってくれたんだ、嬉しくないわけがない! でもほら、クッキーって、寝かせたり型とったりして大変じゃないか。きちんと焼けているか判断するのも難しいし……。君に負担をかけてしまったらと思うと、申し訳なくなってしまって」
「そ、そんなこと……!」

 彼女は勢いよく首を横に振った。

「大丈夫です! 勉強の息抜きも兼ねているので!」
「そう? それなら、いいんだけど……」
「そ、それより、お詳しいですね。もしかして、プリンスさんも、お菓子作りを……?」
「え? ああまあ、多少はね。得意じゃないけど、経験ならあるよ」

 そう、経験ならある。半年ほど前、姉貴に無理やり付き合わされた経験が。
 やつは何度もかんしゃくを起こし、何度も放り出した。なんとか最終工程までたどり着けたのは、なべて俺のおかげである。それでも、姉貴からは感謝の言葉ひとつなかったが。

「そうなんですね。プリンスさんって、何でもできるんですね……」

 昴の実態を見せてやりたい。そう思ったが、俺はあいまいに笑ってごまかした。

「あ、そうだ! あの、私……、山吹高校一年の、鈴木千和(ちわ)って言います。……あの、鈴木っていっぱいいるので……名前で呼んでいただけたら……」

 恥ずかしそうにうつむく彼女の声はしりすぼみになっていったが、貪欲な俺の耳はしっかりと聞きとった。

「かわいい名前だね……、――え、でも、名前で呼んで、いいの?」
「は、はい」
「ええと……。千和、さん?」

 おそるおそる呼びかけると、彼女ははにかんだように「はい」と返事をした。

(うわ……!)

 むずがゆさと嬉しさで胸がいっぱいになる。
 まさか、憧れの君と話をするどころか、名前呼びまでできるとは。昨日まで、思ってもみなかった。
 幸せをじんわりと噛みしめていると、勢い込んだように千和さんが続けた。

「あの、それで――プリンスさん! 私、あなたのこと知らなくて……っ、お、お名前、教えていただけますかっ?」
「え? あ、ああ、もちろん! 俺は、山上(やまがみ)ほく――じゃなくて、えっと、僕、自分の名前が嫌いでさ。山上(やまがみ)って、苗字で呼んでもらえるかな?」

 そう言うと、彼女はちょっとためらった後、「はい」と素直に頷いた。

(……ふう、危なかった。思わず本名を名乗るところだった……)

「昴」ならどちらでもいけそうだが、さすがに「北辰(ほくしん)」は女子の名前として違和感がある。かといって、姉貴の名を騙って、いざ呼ばれたときに反応できなかったら困るし……。他人行儀に思われるかもしれないが、苗字で呼んでもらうのが一番安全だ。

(ん? 安全と言えば――)

「そういえば、さっきもちょっと思ったんだけどさ。君、塾に知り合いはいないのかな?」
「え?」
「毎回、一人で帰っているだろう? でも、あの駅を使うのは君だけじゃないはずだ。実際、今日も、君の前に数人があっちの方に歩いて行ったし。実は僕、夜の散歩が趣味なんだ。この辺も通り道だから、君を見かけたのは昨日が初めてじゃないんだよ。……他の子と帰ってくれたら、僕も安心なんだけど」
「…………」

 彼女が黙ってしまったので、俺は不安になった。
 いきなり踏み込みすぎただろうか。それとも、一連の言動が気障(きざ)すぎただろうか。
 昴になりきっていると歯の浮くようなセリフがすらすら出てくるのだが、もちろん、こんなセリフ、生涯で一度も言ったことがない。
 いや、普段の俺だったらそもそも会話すらままならない。彼女の顔を正面から見つめられるのだって、眼鏡がなくてぼやけているからだ。
 しかしそのせいで、彼女の表情が読めなくて怖くなる。
 ニセ王子のイタイ言動に、千和さんも呆れているのではないだろうか。それどころか、俺の正体がばれているとしたら――?
 どんな答えが返ってくるのかと、俺はひやひやしながら彼女が口を開くのを待った。

「……あの、私、なんだかとろいみたいで……。授業のこと考えてたり、片付けしたりしていると、いつの間にか、みんないなくなってるんです。特に、友達とかもいないし……」

 恥ずかしそうに、千和さんはそう打ち明けた。
 どうやら俺の心配は杞憂(きゆう)のようだ。千和さんはおっとりしていて、気が付いたときには周りに誰もいないだけ。
 なんだそれ。かわいい。
 思った瞬間、俺の口が勝手に言葉を紡いだ。

「そうなんだ。そういうことなら――、僕が、君のナイトになるよ!」
「――えっ?」
「塾から駅の間だけ、僕にお供をさせてもらえないかな? この辺、痴漢が出るって言っただろう? 昨日だって、あんなに大きな声を出しても、誰も気づかなかったんだ。この辺りは、危険なんだよ」

 胸に手を当て、懇願するように彼女を見つめる。
 冷静を装ってはいるが、実際は顔から火を吹きそうだった。千和さんが心配なのは本当だが、この口は何を言っているのだろう。
 俺の提案に、彼女も明らかに狼狽した。

「え、えっ……!? そんな……! で、でも、迷惑じゃ――?」
「迷惑なんかじゃないよ。クッキーまでもらったんだ、このままじゃ僕の気が済まないんだ。……それとも、逆に迷惑かな? どうしても嫌っていうなら、諦めるけど……」

 心から残念そうに、俺は肩を落とす真似をした。しかし、内心では、この申し出を断ってくれと必死に祈っていた。
 だって、ナイトとはなんなんだ。俺は一体、何をしたいんだ。この先もこの格好で彼女と会うつもりなのか。
 だが、言ってしまったものはしょうがない。俺は、固唾(かたず)を飲んで千和さんの言葉待った。
 やがて、彼女が小さく息を吸う気配がした。

「あの、山上さんが良ければ――、ぜひ、よろしくお願いします!」
「――!」

(えっ……)

 目の前で、千和さんが勢いよく頭を下げる。
 俺は彼女が下を向いているのをいいことに、涙を呑んで空を見上げた。
 身から出た(さび)。自業自得。因果応報。
 あと何があったっけ。
 つい現実逃避してしまうほど、俺は先ほどの言葉を後悔していた。

(……ああ、誰か……、ぺらぺら余計なことをしゃべるこの口を止めてくれ……)



 こうして俺は、月・水・金と週三回、千和さんのボディーガードをすることになった。
 ついこの前まで赤の他人だった彼女と並んで歩くことになろうとは。しかも、姉貴に扮した姿で。
 こんなの、すぐにばれると思ったのだが……、なぜか、彼女は俺がニセモノだと疑わなかった。
 俺より少し低い位置にある彼女の頭が、ふわふわと上下に揺れている。楽しそうに見えるのが幻でないことを切に願う。

「あの、女子高って、どんな感じなんですか?」

 彼女は女子高に興味があるらしく、期待に満ちた声で尋ねてきた。

「え? ど、どうって――、そうだなあ……」

 女子高の実態なんて、俺が知っているわけがない。しかし、何か言わなければ。俺は頭をフル回転させ、昴と想像を掛け合わせてみる。

「ええと、いつもいい匂いがしていて……調理実習が多いかな」
「……いい匂い?」
「うん。おかげで、毎日のようにクッキーやらケーキやらをもらうんだよ。おいしくて、つい食べすぎちゃうんだよね。ダイエットが大変だよ、あははっ!」

 おそらくそう外れてはいない……はずだ。昴が通り過ぎた後には、よくバターや砂糖の甘い香りが残っているのだから。

「そうなんだあ……。いい匂い……」

 彼女が鼻をひくつかせ、わずかに首を傾げた。その仕草に、ぎょっとする。

「あっ! で、でも、今日は柔道の授業があって……。シャ、シャワーが壊れていて使えなかったんだ! あ、汗臭かったかな!? レディの前で失礼だったね!」
「え、い、いえ! そんなこと……」

 彼女は否定してくれたが、俺の冷や汗は止まらなかった。彼女と別れて家に着いたとたん、昴の部屋に潜入し、棚という棚を漁りまくる。
 やつのことだ。たぶん、あれもあるに違いない……!
 彼女に臭いと思われたくなくて必死だった俺は、背後から忍び寄る影に気づかなかった。



 翌々日。

「? 山上さん、もしかして、どこか調子が悪いんですか……?」
「え!? ま、まさか。具合なんて悪くないよ!」

 俺は顔を引きつらせながら、彼女の懸念を笑い飛ばした。
 本当に、具合が悪いわけではない。先日、香水をくすねようと昴の部屋に忍び込んだ際、バレて(あざ)だらけにされただけである。痛みが残っていて時折動きがぎこちなくなるせいで、彼女を心配させてしまったようだ。

「あ、あー、もしかしたらあれかな、テストが近いから、昨日は遅くまで勉強をしていてね。そのせいで血行が悪くなって、体が凝っちゃったのかもしれないな」

 わざとらしく首や手首を回してみせる。やつは、見える部分には傷をつけないのだ――さすが常習犯である。
 心の中で感心していると、彼女もまた感心したような声を出した。

「山上さんみたいに優秀な人でも、夜遅くまで勉強なんてするんですね……」
「――えっ、僕の成績、知ってたっけ?」

 ぎょっとして問いかけると、彼女はううん、と首を振った。

「なんとなく、プリンスさんだから、何でもできるのかなって。私とは違って、勉強とか苦手じゃなさそう……」

 そういうことか。昴のことを調べたのかと思って、心臓が止まりそうになった。
 確かに、千和さんの想像通りだ。昴の成績は優秀である。具体的にどのくらい良いのかは知らないが、しょっちゅう同級生に勉強を教えているらしい。
 一方俺は、中の中というこれ以上ないほど平凡な成績だった。そんな俺に、頭のいいやつの気持ちなんてわかるわけがない。こんな時どう答えるのが正しいのか……、俺は平凡な頭を発熱する勢いで働かせ、遠い昴の記憶を探った。

「そ……そうだね。勉強は……面白いと思うよ。知らなかったことを知ることができるし、やればやっただけ身に着くから」

 そう。確か昔、昴はそんなことを言っていた。

「それは……すごいですね」

 千和さんは感心とショックが入り混じったような声音で言った。

「……羨ましいです。私、そんな風に思ったことないから……」

 俺も同感だ。昴の言っていることは、いつも意味不明だった。
 全力で彼女に同意したかったが、今は昴になりきらなければならない。

「そ……そうかな。僕は、君の方が羨ましいな。塾って行ったことないけど、学校とは違うことを教えてくれるんだろう? きっと、同じものを違う視点で見るいいきっかけになる。他の学校の同年代の子と一緒に学ぶ機会ってのもなかなかないし。僕にはできない経験ができて、いいなあと思うよ」

 記憶を適当につなぎ合わせて、あとは口が動くに任せた。だが、昴が実際に言っていたことと、それほどかけ離れてはいないと思う。
 意外なことに、自分の口を通して昴の言葉を語ってみると、すとんと()に落ちるものがあった。
 俺は塾というものは、自分の時間を奪うものだと思っていた。勉強は、自分の時間を削ってするものだと。
 だが、昴は、それを機会だと言う。自分にない視点を知る機会。違うことを知るきっかけ。

「……違う視点……機会……」

 千和さんもそう思ったのか、噛みしめるようにつぶやいた。それから、小さく笑った。

「そうですね……。私、なんか惰性で通ってたところがあるんですけど……。もう少し、ちゃんと勉強してみようかなって思います」

 彼女の声が明るくなっている。
 彼女が嬉しいと、俺も嬉しい。昴の暴力を、今回だけは許してやろうと思った。



 塾から駅までの距離は、十分から十五分というところだった。昴のふりをするには長いが、千和さんのことをもっと知ろうとすると短い。
 それでも、ほんの少しずつだが、俺たちの距離は近づいていった。
 彼女とはいろんな話をした。学校のこと。友達のこと。勉強のこと。趣味のこと。
 教師の文句を言ったり。恥ずかしそうに失敗談を打ち明けてくれたり。
 彼女は、等身大の自分を語ってくれていたと思う。
 対して、俺が話せるのは、記憶と想像を織り交ぜた嘘の姿ばかり。本当のことは、何一つ口にすることができなかった。
 学校ではいつも友達に囲まれていること。
 下級生には慕われ、上級生や先生方には一目置かれ。
 人当たりが良く礼儀正しく、成績は優秀、運動神経は抜群で。
 俺がそんな完璧超人に見えるわけがないのだが、千和さんはなぜか俺の言葉を信じた。
 信じてくれれば信じてくれるほど、その場しのぎの嘘がどんどん積み重なっていく。それは積もり積もって、俺の上にのしかかっていく。
 
 ――彼女を騙していることが苦しくて、耐えられなくなってきていた。



「――え、浅緋で文化祭があるんですか?」

 最近、話題を仕入れるために、昴をよく観察するようになった。そうやって手に入れた最新の情報をリークすると、千和さんは声を弾ませた。

「うん。試験明けの来月なんだけどね。僕のクラスは喫茶店をやる予定なんだ」
「喫茶店!」
「といっても、大したものは出さないんだけど。コーヒーとか、クッキーとか、そのくらいだね。僕はウェイターとテイクアウト用のお菓子担当。僕の手作りっていうパッケージを作って、大々的に売るんだってさ」

 一体どんなパッケージなのか。想像するだにおかしくて、笑えてくる。
 だが、正直楽しみだ。おそらくその日は、昴は売る以上に貢物をもらって帰って来るに違いない。食べきれないときは俺にもおこぼれがある。千和さんにあげたら喜んでくれるだろうか。

「へえ、喫茶店かあ……」

 彼女はうっとりした様子でつぶやくと、そのままの調子で尋ねてきた。

「それって、一般公開もしたり……?」
「え? ああ、うん。確かそうだと思うけど」

 俺はもちろん誘われたことはないが、親は招待券をもらっていたと思う。そう言ったとき、千和さんの意味ありげな視線に気が付いた。

「……? 千和さん……?」
「……あの、それ……、私、行ったりしちゃだめですか? ……もし良かったら、少し、案内してもらったりとか……」
「――え……っ?」

 本音を探るような、怯えるような――千和さんの口調。
 こんなふうに言われたら……、昴なら、二つ返事でOKしたはずだ。
 しかし、俺は。
 この事態を想定していなかった俺は、返答に詰まってしまった。
 彼女が浅緋の文化祭に来たら、俺の嘘がばれてしまう。俺がプリンスではないと知られてしまう。
 案内なんてもってのほかだ。昴の物真似(ものまね)は、本物の前では通じない。

「――あっ、冗談です! 冗談ですよ! 山上さん、お忙しいですもんね! ……それに、私一人のためになんて、そんなずうずうしいこと、私……!」

 血の気を失った俺を見て、千和さんは慌てて付け足した。傷ついたような表情で、真っ赤になって下を向く。

「――っ」

 今度は逆に、カッと頭に血が上った。
 最低だ。
 最低なことをした。
 予想できたはずだ。こんな話をしたら、誰だって期待してしまうと。誘ってくれたのかと、勘違いしてしまうと。
 それなのに。

「あの……っ、千和さん、違うんだ。そうじゃなくて……、そう! 先約があって、それで……!」
「い、いいんです! それ以上言わないで下さい、わかってますから。……私が、勘違いしちゃっただけなんです。だから、今のは忘れてください……!」

 これ以上無言でいたら、さらに彼女を傷つける。そう思って取り繕ったが、さらに墓穴を掘っただけだった。
 千和さんは笑っていたが、ショックを受けているのは明らかだった。それからはどうにも会話が進まず、気詰まりな雰囲気のまま、駅で別れた。



 それから数回、千和さんに会ったが、彼女の笑顔や声に陰りがあるのを、どうしても感じずにはいられなかった。
 文化祭の件もそうだが、きっとその前から千和さんは気づいていたのだろう。
 俺のどこかに嘘があることに。
 正体を隠そうとすればするほど、彼女との間に壁をつくらざるを得ない。彼女が仲良くなろうと歩み寄ってくれる分、俺は後ろに下がらなければならない。それを拒絶と受け取られても不思議ではなかった。
 もう、これ以上は無理だ。
 俺は悩みに悩んだ末、ふと、姉貴に打ち明けてみようかと思い立った。
 今までは、昴に相談しようなんて考えたこともなかった。敬遠して、近寄ろうともしなかった。しかし、文化祭のことを聞いて思い出したのだ。
 昴がクッキーづくりを始めたのは半年くらい前。かんしゃくを起こして一度は投げ出したものの、それからも一人で練習を続けていたのだろう。昴から甘い香りが頻繁に漂っていたのは、きっとそのせいに違いない。
 昴は天才なんかではなかった。ただ、できるまで努力をしただけだ。勉強も、運動も、お菓子作りも、すべて。
 俺みたいに、途中で諦めるわけではなく。
 そう思ったら、素直に相談してみようという気になった。プリンスなどと(あが)められているのも、ただ見かけが華やかだからというだけではないのかもしれない。
 
 ――しかし、全て白状して土下座した俺を、椅子にふんぞり返った姉貴は軽く一蹴した。

「何をしてくれてるんだ、うすらトンカチ。僕の評判が落ちたらどうするつもりだ」

 足を組み、傲岸不遜な態度で俺を見下ろす。こいつはプリンスというより女王様だと、俺は認識を改めた。

「うう……。ひょ、評判が落ちたとしたら、()がバレただけじゃ……うぐっ」
「勝手に僕を(かた)っておいてどういう神経だ、ウルトラへたれ。ほんとに反省しているのか、ハイパー無能」
「くぅ……!」

 なぜかいつも七語で罵倒(ばとう)してくる昴の勢いが止まらない。しかし、しばらく俺をいじめると溜飲(りゅういん)が下がったのか、やがてため息をついて声音を落とした。

「――それで? その(あわ)れな子羊に文化祭を案内してやれって? うちの不詳(ふしょう)の弟が(だま)してごめんねって謝って? ――はあ。それで何が解決するんだ、腐れトンチキ」
「だ、だって、彼女がそうして欲しそうだから……」
「……はああああああ」

 昴はこれ見よがしにため息をついた。それから、ちっと舌打ちをする。

「あほ馬鹿間抜け! ほんっとにお前は何もわかってないな。その子が求めているのは、そんなことじゃないだろう」
「ええ? でも――」

 本物の昴であれば、文化祭も案内できる。俺なんかより、昴と仲良くなれた方が彼女も嬉しいはずだ。嘘がばれたら俺は軽蔑されるだろうが、彼女が喜んでくれるなら構わない……。いや、すごくきついけど、俺が悪いのだから耐えるしかない。

「それに、お前が落とし前をつけないでどうする。お前の少ない美点はなんだ。馬鹿正直で素直なところだろう?」
「――そ、それは、どう考えても短所だろ!」

 おかげで地味でつまらないと言われるし、馬鹿にされることも多い。千和さんのことだって、歩きスマホが危ないなと思って見ていたら、いつの間にか好きになっていたという単純さだ。

 ……一応釈明しておくと、軟弱な体を鍛えようと人知れず公園で筋トレしていただけで、誓って痴漢でも変質者でもない。

 しかし昴は、ふふんと笑った。

「やっぱりお前は何もわかっていない。自分が悪いと思ったら悪いと言える、できないと思ったらそう言える――、それは僕にないところだというのに。……まあいい。とにかく、お前は単純馬鹿なんだ。四の五の言ってないで、誠心誠意謝ってこい」
「いや、でも……っ」

 部屋から蹴り出そうとする昴に抵抗し、俺は床にしがみついた。

「でも、謝るだけなんて……! 俺ができる(つぐな)いは、これくらいしかないんだ……!」

 彼女は、騙されていたことに傷つくだろう。プリンスどころか、こんな何のとりえもない男と無駄な時間を過ごしたことを悔やむかもしれない。だからせめて、憧れの人との橋渡しをするくらいはしてあげたい。
 だが、昴は俺の気持ちをわかってくれなかった。

「この、ボケナスメガネが……。……お前のしたことは、その女の子のためなんだろ。それがわかんないような子なら、お前からフッてこい」
「――はあ!?」
「そんな計算高くてプライドも高い女、僕だってお断りだ」
「ち、千和さんは、そんな子じゃない!」

 彼女を馬鹿にするような言葉にカッとなる。
 思わず立ち上がった俺を、昴はどうやったのかクルリと回して、部屋の外へと叩き出した。

「だったらいいだろう。ああ、もうひとつ言っておく。僕は、お前の代わりもごめんだ」

 ドアの隙間から顔をのぞかせ、べえと舌を出して捨て台詞を吐いた。

「――っ? 何を……!」

 何を言って。
 俺の代わりなんて頼んでいない。もともと俺がしていた昴の代わりを、本人に戻したいだけなのに。
 俺は抗議しようとしたが、目の前でドアを閉められては言い募ることもできなかった。
 けんもほろろに追い払われた俺は、とぼとぼと待ち合わせ場所に向かった。



「……えっと。こんにちは……」
「こ、こんにちは……」
「…………」
「…………」

 ぎこちない挨拶を交わし、ぎくしゃくしながら歩き出す。
 千和さんの顔が見られない。頭の中が、昴の言葉でいっぱいだった。

 ――誠心誠意謝ってこい。お前は、彼女のためにしたんだろ。

 それは間違いない。最初は確かにそうだった。
 だが――……。
 あの時、千和さんに落ち着いてほしくて、俺はプリンスだと嘘をついた。しかし、それ以降も、ずっと嘘をつき続けたのだ。
 打ち明ける機会は何度もあった。本当のことを話しても、彼女はもう俺を警察に着き出そうとはしないだろう。そう思えるくらいの時間は過ごしたはずだった。
 だが、そうしなかったのは……、千和さんのためではない。
 償いだ何だと言ったが、結局、嫌われるのが怖かったのだ。
 この関係を、壊したくないから。
 たとえニセモノでも、彼女と話ができるのが嬉しいから。
 嫌われるより、罪悪感に耐えていた方が楽だから。
 だから、ずるずるとここまできたのだ。
 その怖さを克服するだけの勇気が、俺にはない。

(……やっぱり、もうしばらく、このままで……)

 何度となく繰り返した結論に傾いた、その時だった。

「――え……?」

 ふいに、千和さんの驚いたような声が聞こえた。
 考えに没頭していてうつむいていた俺は、顔を上げて彼女の方を見たが遅かった。

「危ない……っ」

 俺を押しのけるようにして道路側へ飛び出した千和さんの姿を呆然と追う。
 そこでようやく気が付いた。薄闇に(まぎ)れて接近していた人影が、一気に俺へ向かって来ていたことに。
 わざとぶつかりにきたとしか思えない行動だった。
 だが、千和さんがみせた行動の方が、俺には衝撃だった。彼女はあろうことか、俺をかばおうと影と俺の間に割り込んだのだ。

(――千和さんっ!?)

 息が止まった。体が硬直し、目を見張ったまま突っ立っていることしかできない。

 ――しかし、間一髪、黒づくめのその人物はとっさに方向転換をした。

 俺の脇をかすめるようにして走り抜けながら、「あぶねえな! 超絶のろま!」と押し殺したような声でマスクの裏から叫んでいった。

「――……」

 どこか聞き覚えのある声を、俺はぼうっとして見送った。
 何が起こったんだ。
 今の一瞬で、何が。

「……はあ……っ」

 背後で千和さんが小さく息をついた。俺はようやく我に返って、振り返る。

「千和さん! 大丈夫!?」

 千和さんはしゃがみ込んでいたが、胸に手を当てて立ち上がった。

「あ、はい、私は……、ちょっと、びっくりしただけです。山上さんこそ、大丈夫ですか?」
「――っ、俺は、大丈夫だけど! なんで、そんな(かば)うようなこと……!」

 逆ならわかる。俺が千和さんを庇うのなら。……だが。
 千和さんは、ほっとしたように顔をほころばせた。

「だって、山上さんも女の子じゃないですか。だめですよ、山上さん。道を歩いているときは、周りに気を付けてくださいね」

 からかうようにそう言われ、俺は愕然とした。
 俺は一体、何をしているのだろう。
 彼女を守りたいのではなかったか。そのために、送り迎えをしているのではなかったのか。
 考え事に気を取られ、しかも、眼鏡がないから周囲も良く見えない。
 危険に気づかず、その上、女子だからと守りたい人に守られて……。

「――え、山上さん……っ?」

 自覚する間もなく、ぽろぽろと涙がこぼれ始めた。
 千和さんが、ぎょっとしている。泣き止まなければと思うのに、止まらない。

「ど、どうしたんですか、山上さん……? どこか、怪我を……?」
「……違うんだ、千和さん……」

 こんなの、本末転倒だ。
 やっぱり、俺が間違えていた。
 俺は、震える声で、言葉を紡いだ。

「ごめん。全部……嘘だったんだ……!」



 公園に移動して千和さんがベンチに座ると、俺は彼女の正面に立った。そこで、洗いざらい白状した。
 昴には簡潔に話せたのに、いざ千和さんに説明しようとすると難しかった。何度もつっかえてしまい、思うように話せない。
 しかし、そんな聞きづらい俺の話を、千和さんは口を挟まず、黙って聞いてくれた。俺が男であることや同い年であることには驚いた様子だったが、それ以外、これといった感情はうかがえなかった。
 怒るでもなく、泣くでもなく。
 何の反応もないことが、俺の恐れを増幅した。

「あの……本当に、ごめん……。でも、すぐに、ばれると思ってたんだ。……俺、姉貴と違ってカッコよくないし……。背も高くないし、成績とか普通だし……」

 コンタクトレンズが合わなくて、分厚い眼鏡が手放せない。人と目を合わせるのが苦手で伸ばした前髪は、陰気に見えると身内からも不評だ。
 自信がなくて臆病で。昴とは、外見にも中身にも天と地ほども差があった。
 しばらく口をつぐんでいた千和さんが、そこでようやく口を開いた。

「……そんなこと、ないと、思うけど……」
「……へ?」
「だって、人気、ありそうだし」
「――え、俺が? ……そんなわけないよ!」

 びっくりして顔を上げる。眼鏡をかけた目に、頬を膨らませた千和さんの顔が映った。

「俺なんか、地味で、平凡で。友達は数人いるけど、他はろくに話したこともないし……」
「嘘ばっかり。山上さん――えっと、北辰(ほくしん)くんだっけ? ……モテるでしょ」
「は? まさか! 女子になんか、認識されてるかどうかすら怪しいよ!」

 普段はきっと、壁のシミか背景にしか思われていない。係りの仕事をやるときとかに、「あ、そういえばいたんだっけ」と一時的に存在が浮上するくらいだろう。
 だから、女子と話をするだけでも、めちゃくちゃ緊張するのだ。
 そういえば、昴の真似をしていたから今までは平気だったが……、改めて考えてみると、今、俺は、同い年のかわいい女子と話をしているわけで。

「い、一度もモテたことなんてないです……」
「? なんでいきなり敬語?」
「だ、だって……、同い年だから……」
「……同い年なら、タメ口でいいんじゃない?」

 そう言って、彼女はようやく破顔した。

「そっか……。じゃあ本当に、モテないんだ!」

 思い切り断言され、俺は絶妙にショックを受けた。
 言ったけど。確かにそう言ったけど。
 なんで俺がモテないとそんなに嬉しそうなんだ。

「人気、まったくないんだよね!?」

 しかも、彼女はもう一度念を押した。彼女の笑顔と発言が、ぐっさりと胸に突き刺さる。
 泣きそうな顔をした俺を見て、千和さんが慌てたように付け足した。

「あ、ご、ごめん! えっと、たぶん、北辰くんが思ってるのと違くて……」
「……違う……?」
「う、うん。……だって、北辰くん、優しいし、私のこと気遣ってくれるし……。いいところ、いっぱいあるよ。だから絶対、人気あるって思ってた」
「……え」
「男の子だって聞いてびっくりしたけど……、でも、もっと仲良くなりたいのは変わらなくて……」

 恥ずかしそうに指をからませている彼女を、言葉もなく見下ろす。
 怒ってないの? 俺が男なのはスルーでいいの?
 じゃあ、何が。最近、沈んでいる様子だったのはなんで。
 理由がわからず、答えを求めて彼女の顔を凝視する。すると、彼女はうつむきながら言った。

「……だから、ずっと、気になってたの。こんなふうに、私だけ特別扱いしてもらっていいのかなって。……だけど、一線を引かれている感じもして。やっぱりそう思ってたのは私だけで、北辰くんは誰にでもそうなのかなって思ったら悲しくて……」
「…………」
「……でも、そうじゃないんだったら――」

 千和さんは、思い切ったように顔を上げた。

「――独り占めして、いいですか……?」
「え――?」

 俺は、千和さんの顔を、信じられない思いで見つめた。
 彼女はまっすぐ俺を見ていた。
 俺を通して、昴を見るのではなく。眼鏡を通して、俺の目を。

「……で、でも、俺は、プリンスじゃないし……」
「プリンスさんは関係ないよ。私を助けてくれたのも、一緒にいてくれたのも、北辰くんでしょ?」

 セリフや態度は真似できても、気遣いまでは真似できない。
 北辰がみせた思いやりは、演技ではなく、もともと彼に備わっていたものだろうから。
 千和さんはそう言って、最後に輝くような笑顔を浮かべた。 

「……私だけの、王子様になってくれる?」


 初めてちゃんと見た彼女の笑顔は、息が止まってしまうほどきれいだった。
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