黄昏乙女は電車で異世界へ 恋と運命のループをたぐって

7

 日が落ちた。

 さらは膝を抱えて一向に訪れない奇跡の兆しを待ち続けていた。

 そうしながら心のどこかで諦めも湧いている。

 (帰れないのかも……)

 ここに来る扉が開いたのが奇跡なら、もう二度とそれが繰り返されることはないのではないか。

 来たから帰れるなどと単純に考えるのは愚かなのかもしれない。意思とは関係なく迷い込んだ世界だ。帰る道があるのなら、それは意思を超えた先にあるものなのかも……。

 じわじわ心を蝕む恐れは寒さと共に彼女を包んでいった。

 時間の感覚も遠くなった時、獣の声を聞いた。犬の遠吠えに似たそれは、さらのいる場所から遠くないようだった。別な恐怖がぴりぴりと肌を刺した。

 (狼?)

 再び声を聞き彼女は立ち上がった。足が痺れていたがここにはいられない。ふらつきながら暗い中を草を踏み締めて進む。足が草に取られてつまずいた。それを繰り返し、溢れた涙を拭うことも止めた。

 さっきとは違った方向から獣の声が響いた。ほど近くに感じる。

 唸り声が混じったそれにさらはパニックを起こした。何度も転びながら草むらを這い出た。暗いだけのそこが安全とは思われない。視界に民家の明かりもなかった。

 城を出てきたことへの後悔が湧き上がる。彼女にはこの世界を渡る知恵もなく術も持たない。感情のままに城を出てきたが、何もできずに途方に暮れているだけだった。

 涙に滲むさらの視界に点々と明かりが見えた。それらは彼女の方へ馬蹄の響きと共に向かって来る。変化の対処に迷うまでもなく、間もなくその集団はさらを見つけ出した。

 明かりの主は騎馬した城の兵士の姿だった。手の明かりをさらに近づける。

 「サラか?」

 誰何の声にどこかほっとしながらさらは頷いた。彼女の反応に兵士が笛を鳴らした。甲高く鳴ったそれが合図のようで、間もなく別な馬の集団が近づいて来る。

 兵士がかけてくれた毛布にさらは包まった。少し煤の匂いがしたが暖かい。

 「怪我をしていないか?」

 乾いた喉がひりついた。長く喋っていない。首を振って答えた。一人の兵士が馬上に彼女を引き上げた。抗う気力も意思ももうなかった。

 さらを連れた騎馬の集団は城に向かうようだった。諦めで心が疲労していた。ぼんやりと馬上で揺られるうちに城郭が見えてきた。それは夜目でも月明かりに浮かび巨大にそびえ立っている。

 堀を渡り内部に入った。馬を降りたさらを迎えたのはクリーヴァー王子だった。彼女に歩み寄る。

 「逃げたのか?」

 問いと一緒に腕をつかみ上げた。顔を背けて目をぎゅっとつむったのは殴られると思ったからだ。彼はそれを許さず、彼女の顎をつまみ強引に自分の方へ戻した。

 目が合う。少し彼の力が緩んだ気がした。

 「それまでに。休ませてやるのがいい」

 その声はダリアだった。彼は王子の背後に控えていた。

 当主の彼までがこの場にいるのは、王子の意を汲んで彼女を捜索させたからだ。ここに来る道すがらも、メイドの自分を探すために騎馬隊を出すなどとは考えなかった。見回りか何かの兵士に偶然救助された、程度に思っていたのに。

 王子は言葉に従ってか、さらを解放した。

 「逃げるな」

 そのまま背を向けて大玄関を中へ入って行った。ダリアはすぐに後を追わず、声をやや低くし、

 「消そうとあおぐほど火は強くなる。火種が尽きるのを待て。そなたのためだ」

 と、さらに説いた。その意味を噛みしめる前に彼は彼女を置いて去った。

 「消そうとあおぐ」とは王子の意思に逆らうことを指すのだろう。そして「火種が尽きる」とは彼のさらへの興味が萎むことだ。

 (飽きるまで従順に、我慢しろ。と言うこと)

 ダリアの語調からそれは遠くないと示唆しているようにも聞こえる。

 王子の戯れ、気まぐれ。その間の慰みものに徹しろということだ。それを誰でもないダリアから「そなたのためだ」と諭され、胸の中が黒く重くなった。

 彼の優しさなのだとはわかる。この世界での常識に沿ったものなのも理解できた。

 (でも、嫌)

 しかし、だからどうするのか。実際にこの城を出ても数時間で音を上げたくせに。

 「内区まで送ろう」
 
 兵士が両側から彼女を挟み促した。親切というより監視の体だ。どうするべきか何も浮かばないまま従った。内区側にはメイド頭のリビエが待っていた。さらを引き取り回廊を居住区へ向かう。

 王子の部屋の前でリビエが、

 「青い顔よ。中に食事を用意してあるから食べなさいね」

 と声をかけてくれた。その優しさに衝動的に縋りたくなった。どうしたら避けられるのかを問いかけたくなった。

 それが声にならなかったのはないとわかっているから。リビエを困らせるだけだからだ。ダリアだって彼女にそんな方法を教えてくれなかった。

 部屋に入ると無人だった。華麗な調度が飾られた広く美しい部屋だ。テーブルにリビエの言った食事の用意がなされていた。

 ひどく喉が渇いていたからお茶を飲んだ。空腹感はあるが喉を通らない気がした。

 窓から外を眺めた。貴賓室だけあり庭園は灯を浴びて幻想的に照らされている。そんな癖などないのに、いつしか指を噛んでいた。

 そこで扉の音を聞いた。びくりとして振り返ると、果たしてクリーヴァー王子の姿がある。さらは目を伏せた。怖いのと彼の目に晒されていると感じたくないためだ。

 王子に手を取られた。彼はさらの手を握りながら、

 「また泣いていたのか?」

 と聞いた。

 今は涙は乾いたが、暗闇の中ではずっと泣いていたのだから腫れた目をしているはずだ。

 「獣に怯えたのだな。勝手に城を出るからだ。女が一人では噛み殺されていたかもしない」

 王子はさらを抱きすくめ耳に囁いた。

 「僕から逃げるな」

 髪をいじる指が彼女の結い髪を解いた。はらりと髪が肩を覆う。ふと腕を解きまじまじと彼女を眺めた。

 「髪はもっと長い方がいい。そうしろ」

 「……「姉や」がそうだったから?」

 さらの言葉に王子は表情を固くした。眉間の筋で怒りが知れた。

 そもそも王子のさらへの興味は彼の「姉や」に似ていることが発端だ。その人の型に彼女が嵌り、「姉や」そのものになることを望んでいるのかもしれない。

 発想が薄気味悪い。理不尽に理想を押しつけられることへの不快感が湧き起こる。

 「誰に口を聞いている? お前は「はい」以外は答えるな」

 王子は彼女の顔を片手で持ちぎゅっと挟んだ。痛みにさらは目を閉じた。恐怖から涙が滲んだ。

 ほどなく手は離れたが怯えで体が震えた。手で顔を覆う。王子は簡単に力で言葉を封じようとする。そこに迷いもない。

 「……わたしは、あなたの「姉や」じゃない。別の人です。違う人なの」

 王子は彼女の手を顔から外させた。指で彼方を指す。そこには椅子に掛けられた衣装があった。ダリアの姉のキシリアなどが着ているドレスだった。

 「着替えろ。その格好は好かない」

 「姉や」はドレスを着た人だったようだ。それを言えば今度は拳が降って来るかもしれない。着替えるくらいは譲歩できる。黙ってドレスを手に部屋の隅の衝立後ろに移った。

 メイドの服を脱ぎドレスに足を入れた。肩まで引き上げて気づく。後ろのリボンが結べない。一人で着る服ではなかった。

 その時不意にドレスの後ろリボンを結ぶ手を感じた。振り返るまでもなく王子だ。

 (いつから見ていたの……?!)
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