温厚専務の秘密 甘く強引な溺愛
忘年会の翌日。
朝の冷たい空気の中、波瑠はスーツケースを引きながら駅へ向かっていた。
年末の人波は慌ただしく、改札を行き交う人々の表情はどこか浮き立っている。
家族の元へ帰る人、旅行に出かける人…誰もが新しい年を迎える準備に心を弾ませていた。
波瑠の胸にも、不思議な静けさと少しの期待が広がっていた。
美咲と過ごした昨日の時間が、心に灯りをともしてくれている。
(……行こう。私の新しい場所へ)
周防大島へ渡る大島大橋を越えると、胸の奥が温かくざわめいた。
(お父さんとお母さんと、毎年来た場所……)
予約した花月リゾート旅館の前に立つと、玄関から出てきたのは見覚えのある顔だった。
「……恵美?」
「波瑠……! 本当に? 久しぶり!」
かつてこの旅館で一緒に走り回り、夏の海で遊んだ幼なじみ。
その恵美が、今は立派に女将の着物姿で立っていた。
「女将さんは……?」と尋ねると、恵美は少し照れくさそうに笑った。
「母が引退してね。今は私が継いでるの」
その言葉に、波瑠の胸にじんと熱いものが広がる。
時の流れを痛いほどに感じながらも、変わらぬ笑顔に救われた気がした。
「ようこそ、帰ってきてくれて嬉しいわ。さあ、上がって」
恵美が声を弾ませると、波瑠は深く息を吸い込み、旅館の暖簾をくぐった。
窓から差し込む瀬戸内の光が、昔の思い出と今をそっとつなぎ合わせるようだった。
夕食を終え、港の夜風に当たってから部屋へ戻ると、襖を軽く叩く音がした。
「波瑠、少しいい?」
顔を出したのは恵美だった。浴衣姿に羽織をかけ、湯上がりの頬がほんのり赤い。
「もちろん。入って」
卓袱台に座ると、恵美は笑いながら急須と湯呑を置いた。
「温かいお茶を一緒に飲もうと思って」
注がれた湯呑からは香ばしいほうじ茶の香りが広がり、その隣には小さな菓子皿が添えられていた。
「それとね、ほら。特産のみかん最中もあるのよ」
「――あ! みかん最中! なつかしい~」
思わず声を弾ませた波瑠に、恵美は嬉しそうに笑った。
ゆるやかに時が流れる中、昔話に花が咲いた。
小学生の夏、旅館の裏の海で必死に泳いだこと。
夜遅くまで虫取りをして、女将に叱られたこと。
「覚えてる? 波瑠のお父さんが網を持ってきてくれて、大きな魚が取れたこと!」
恵美が身振りで話すと、波瑠は声を上げて笑った。
「覚えてる。……あの時のお父さん、本当に嬉しそうだった」
ふいに胸が熱くなり、笑顔のまま瞳が潤む。
「ねえ、波瑠……大丈夫?」
恵美がそっと問いかける。
「……うん?」
返事をしながら、波瑠は慌てて目元に手をやった。
恵美はじっと見つめ、穏やかに続けた。
「顔色も良くないし、夕食もあまり食べてなかったみたいだから……ちょっと気になって」
その言葉に、波瑠の胸の奥がきゅっと締めつけられる。
ずっと気丈に振る舞ってきたつもりでも、恵美には見透かされてしまう。
「……大丈夫。ちょっと疲れてるだけ」
そう笑ってみせるけれど、その声はどこか震えていた。
恵美はそれ以上追及せず、やわらかく微笑んだ。
「そう。辛かったら言ってね」
そして、ふと思い出したように声を弾ませる。
「明後日までいられるのよね? 年越しそばも、おせちも波瑠と食べられるのね! うれしい! 張り切っちゃう!」
子どもの頃と変わらない無邪気な笑顔に、波瑠の胸がじんわり温かくなる。
「……ふふ、楽しみにしてる」
笑い声が重なり合い、懐かしい夜は穏やかに更けていった。
障子の外からは、瀬戸内の波音が静かに寄せては返していた。
朝の冷たい空気の中、波瑠はスーツケースを引きながら駅へ向かっていた。
年末の人波は慌ただしく、改札を行き交う人々の表情はどこか浮き立っている。
家族の元へ帰る人、旅行に出かける人…誰もが新しい年を迎える準備に心を弾ませていた。
波瑠の胸にも、不思議な静けさと少しの期待が広がっていた。
美咲と過ごした昨日の時間が、心に灯りをともしてくれている。
(……行こう。私の新しい場所へ)
周防大島へ渡る大島大橋を越えると、胸の奥が温かくざわめいた。
(お父さんとお母さんと、毎年来た場所……)
予約した花月リゾート旅館の前に立つと、玄関から出てきたのは見覚えのある顔だった。
「……恵美?」
「波瑠……! 本当に? 久しぶり!」
かつてこの旅館で一緒に走り回り、夏の海で遊んだ幼なじみ。
その恵美が、今は立派に女将の着物姿で立っていた。
「女将さんは……?」と尋ねると、恵美は少し照れくさそうに笑った。
「母が引退してね。今は私が継いでるの」
その言葉に、波瑠の胸にじんと熱いものが広がる。
時の流れを痛いほどに感じながらも、変わらぬ笑顔に救われた気がした。
「ようこそ、帰ってきてくれて嬉しいわ。さあ、上がって」
恵美が声を弾ませると、波瑠は深く息を吸い込み、旅館の暖簾をくぐった。
窓から差し込む瀬戸内の光が、昔の思い出と今をそっとつなぎ合わせるようだった。
夕食を終え、港の夜風に当たってから部屋へ戻ると、襖を軽く叩く音がした。
「波瑠、少しいい?」
顔を出したのは恵美だった。浴衣姿に羽織をかけ、湯上がりの頬がほんのり赤い。
「もちろん。入って」
卓袱台に座ると、恵美は笑いながら急須と湯呑を置いた。
「温かいお茶を一緒に飲もうと思って」
注がれた湯呑からは香ばしいほうじ茶の香りが広がり、その隣には小さな菓子皿が添えられていた。
「それとね、ほら。特産のみかん最中もあるのよ」
「――あ! みかん最中! なつかしい~」
思わず声を弾ませた波瑠に、恵美は嬉しそうに笑った。
ゆるやかに時が流れる中、昔話に花が咲いた。
小学生の夏、旅館の裏の海で必死に泳いだこと。
夜遅くまで虫取りをして、女将に叱られたこと。
「覚えてる? 波瑠のお父さんが網を持ってきてくれて、大きな魚が取れたこと!」
恵美が身振りで話すと、波瑠は声を上げて笑った。
「覚えてる。……あの時のお父さん、本当に嬉しそうだった」
ふいに胸が熱くなり、笑顔のまま瞳が潤む。
「ねえ、波瑠……大丈夫?」
恵美がそっと問いかける。
「……うん?」
返事をしながら、波瑠は慌てて目元に手をやった。
恵美はじっと見つめ、穏やかに続けた。
「顔色も良くないし、夕食もあまり食べてなかったみたいだから……ちょっと気になって」
その言葉に、波瑠の胸の奥がきゅっと締めつけられる。
ずっと気丈に振る舞ってきたつもりでも、恵美には見透かされてしまう。
「……大丈夫。ちょっと疲れてるだけ」
そう笑ってみせるけれど、その声はどこか震えていた。
恵美はそれ以上追及せず、やわらかく微笑んだ。
「そう。辛かったら言ってね」
そして、ふと思い出したように声を弾ませる。
「明後日までいられるのよね? 年越しそばも、おせちも波瑠と食べられるのね! うれしい! 張り切っちゃう!」
子どもの頃と変わらない無邪気な笑顔に、波瑠の胸がじんわり温かくなる。
「……ふふ、楽しみにしてる」
笑い声が重なり合い、懐かしい夜は穏やかに更けていった。
障子の外からは、瀬戸内の波音が静かに寄せては返していた。