温厚専務の秘密 甘く強引な溺愛
夜が明け、旅館の窓から差し込む淡い朝日で目を覚ました波瑠は、まだ人影の少ない浜辺へと足を向けた。

冬の瀬戸内は穏やかで、寄せては返す小さな波が規則正しく砂を濡らしている。
冷たい潮風が頬を撫で、波瑠の髪をそっと揺らした。

(……お父さん)

子どもの頃、父と一緒に集めた貝殻。
浜辺を走りながら聞いた、大きな笑い声。
網を担ぎ、海を見つめる父の背中。

足るを知る、という言葉を教えてくれたのは父だった。

まだ小学生だったころ。
父と一緒に防波堤で釣りをして、思いがけず大漁になったことがある。
バケツの中でぴちぴちと跳ねる魚を見ながら、波瑠は目を輝かせた。

「お父さん、これ全部持って帰りたい!」

すると父は笑いながら首を振った。
「波瑠は全部食べられるのかい?」

「……うーん、こんなにたくさんは無理だよ~」

「じゃあ、海に返しなさい」

「どうして?」
小さな顔を上げると、父は海を見つめたまま、穏やかに答えた。

波瑠はバケツの中の魚を見つめ、少し黙った。

「本当に大事なのは、お腹いっぱいになるだけの分があれば十分だって知ること。
足りないと思えばどこまでも欲しくなるけど、必要な分があればそれで幸せなんだよ。
それが“足るを知る”ってことなんだ」

父の声はやさしかったが、その言葉の奥に確かな強さがあった。
その時はよく理解できなかったけれど、波瑠は魚を手に海へ戻した。
水しぶきとともに海へ帰っていく命を見送りながら、父の横顔を強く胸に刻んでいた。

浜辺に立ち、寄せては返す波を眺めながら、波瑠は静かに目を閉じた。

(……“足るを知る”)

父の声が胸の奥でよみがえる。
必要な分だけで、十分に幸せを感じられる…あの教えを、今なら少しわかる気がした。

圭吾と過ごした日々。
誕生日に笑い合ったこと、クリスマスに寄り添ったこと。
決して長くはなかったけれど、そのひとつひとつは確かに自分を幸せにしてくれていた。

「……大好きだった。今だって、本当は一緒にいたい」

胸が締めつけられるように痛む。
けれど、それが偽らざる気持ちだった。

「……あんなに愛せる人に出会えただけで、十分幸せだったんだ」

言葉にした瞬間、波瑠の瞳から涙がすっとこぼれ落ちた。
悲しみと感謝が入り混じったその涙は、やがて潮風に溶けていく。

朝日が海を照らし、きらめきながら新しい一日を告げていた。
波瑠は涙をぬぐい、静かに前を向いた。

浜辺をあとにして、波瑠は島の小高い丘にある小さな神社へ足を運んだ。
鳥居をくぐると、凛とした冷たい空気が頬を撫で、境内の静けさに心がすっと引き締まる。

社殿の前に立ち、鈴を鳴らす。
澄んだ音が冬の空に広がり、どこか遠いところまで響いていくようだった。
手を合わせ、深く息を吸い込みながら瞼を閉じる。
「……お父さん、ありがとう。圭吾さんと出会えたことも、きっと意味があったと思う」

胸の中に残っていたわだかまりが、ゆっくりと溶けていく。

目を開けると、冬空に淡い陽が差し込み、社殿の屋根に光がきらめいていた。
波瑠は一礼し、静かに境内を後にする。
鳥居を抜けたとき、不思議と肩の荷が軽くなったように感じた。

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