温厚専務の秘密 甘く強引な溺愛
「今日はね、午前中はコーヒー農園に行くの」
綾香が楽しそうに計画を告げる。

「コーヒー農園?」
圭吾は思わず聞き返した。

「うん! ハワイ島といえばコナコーヒーでしょ。試飲もできるし、お土産に豆も買えるんだから」

「なるほどな。悪くない」
圭吾は苦笑しながらコーヒーカップを置いた。

「それから軽くランチを食べて……午後はヘリコプターで滝を見に行くわよ!」

圭吾は思わず眉を上げる。
「なんだか大げさだな」

「何言ってんの! ハワイといえば滝! 清めてもらうわよ!」
楽しそうに身を乗り出す綾香に、圭吾は苦笑した。

娘の無邪気な声に、圭吾は肩をすくめつつも、その笑顔を愛おしそうに見つめていた。
だが胸の奥にいるのは、やはり波瑠だった。

「お父さん、これ美味しい! 」
綾香が嬉しそうにカップを掲げる。

圭吾も一口含み、豊かな香りに目を細めた。
その瞬間、ふと脳裏に浮かぶのは…自宅のバルコニーで、波瑠と並んで飲んだカプチーノ。
朝の光に照らされ、少し照れくさそうに笑った彼女の横顔が、鮮やかによみがえる。

甘く芳ばしい香りは、今や苦しいほどの切なさを伴って胸を刺した。

軽いランチを前に、綾香は楽しそうに料理を頬張っていた。

「おい、そんなに食べて大丈夫か? お前、乗り物酔いしやすいだろう?」
圭吾が眉をひそめる。

「酔い止め飲んだから大丈夫だよ」
綾香はフォークを振って笑う。

「小型の飛行機もあるから、変えてもいいんだぞ」
「ヘリじゃないと、滝のそばに行けないの! 大丈夫だってば」

心配する父と、強気に応える娘。
そのやりとりに、テーブルの上に柔らかな笑いが広がった。

リゾートホテルのエントランスに、一台の車が滑り込んだ。
降りてきたのは、操縦士兼ガイドの男だった。

「初めまして。柏木健太と申します」

日に焼けた顔に笑みを浮かべる柏木は、六十を少し超えているように見えたが、若々しい雰囲気をまとっていた。どこか陽気で、人懐っこい空気を持っている。

「こちらこそ、お世話になります。松田です」
圭吾が軽く会釈する。
「娘の綾香です」

「わあ、よろしくお願いします!」
綾香が明るく挨拶すると、柏木は目を細めて笑った。

「今日は最高の天気ですよ。滝の近くまで、しっかりご案内しますからね」

南国の風が吹き抜け、父娘の一日が新しい景色へと動き出していった。

車に揺られながらヘリポートへ向かう途中、柏木が振り返ってにこやかに話しかけてきた。

「今日はラッキーですよ。ここ数日は雲が多かったんですが、今朝はすっかり晴れましたからね。滝もよく見えます」

「へえ、そんなに違うものなんですか?」
綾香が目を輝かせる。

「ええ。ハワイ島の滝は火山でできた地形に流れ落ちていますから、雨が多いと濁ってしまうんです。でも今日は澄んだ水がご覧いただけるはずですよ」

「なるほど……それは楽しみだな」
圭吾が相槌を打つと、柏木はさらに言葉を続けた。

「この島の滝は古代から“浄化の場所”とも呼ばれていましてね。地元の人たちは、滝を眺めるだけでも心が清められると信じているんですよ」

「清める……」
綾香が嬉しそうに父を見やる。
「だから言ったでしょ、お父さん!」

圭吾は苦笑しながらも、心の奥でその言葉を反芻していた。
…浄化。
もしそれが本当に叶うのなら、自分の中にこびりついた後悔も、洗い流してくれるのだろうか。

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