温厚専務の秘密 甘く強引な溺愛

——波瑠。

自分を呼ぶ声が、確かに耳に届いた。
胸の奥で愛しい人の面影が脈打つ。

だが、水平線をじっと見つめたまま、波瑠は小さく首を振った。
「……幻聴ね」
自嘲するように笑う。
自分から離れていったのに。
それなのに——どうして、こんなにも会いたい気持ちが募ってしまうのだろう。

アルバイトからの帰り道、ふと足が向いてしまった海岸。
潮風にさらされながら、波瑠はそっとお腹に手を当てた。

そこにいるのは、愛しい人との子ども。
連絡することはできない。
その事実が胸を締めつけ、一瞬、耐え難い辛さが押し寄せる。

けれど、耳に届く波の音が、その痛みをさらっていく。
潮の香りに包まれ、ふと父の言葉がよみがえった。
——足るを知る。

この子が来てくれたこと。
そして、圭吾と過ごした短い時間の思い出。
それだけで十分だと、自分に言い聞かせてきた。

「圭吾さん……ありがとう」

胸に浮かぶ名をそっと呼ぶ。
これ以上を求めてはいけない。
そう言い聞かせようとするのに——心の奥では、どうしても願ってしまう。

子どもと、圭吾と。
三人で生きていく未来を。

理性と願いの狭間で涙がこぼれ、頬を伝って落ちていった。
夕日が沈もうとする海に、その涙は淡い輝きを宿していた。



「波瑠!!」

再び響いた声は、幻ではなかった。
風にかき消されることなく、はっきりと自分の名を呼んでいる。

波瑠ははっとして振り向いた。
砂浜を駆けてくるひとりの男。
スーツの裾を乱し、息を切らしながら、それでも迷いなく自分の方へ走ってくる。

「……うそ……」

会いたいと願いながら、決して会えないと自分に言い聞かせてきた人が、目の前に駆け寄ってくる。

足がすくみ、動けない。
ただ立ち尽くし、涙に濡れた瞳で彼の姿を追うしかなかった。

圭吾の荒い息づかいが波の音を越えて届く。
その瞳は真っ直ぐに波瑠だけを射抜き、ひたむきな熱を宿していた。

夕日が沈みかける海を背景に、ふたりの距離は刻一刻と縮まっていく。
止めようのない運命のように。

砂を蹴り上げ、圭吾が波瑠のすぐ目前で立ち止まった。
肩は大きく上下し、荒い息が白い吐息となって宙に溶けていく。

「……やっと……見つけた……」

低く、絞り出すような声。
その言葉に、波瑠の胸が震えた。

圭吾は震えるように腕を伸ばした。
次の瞬間、波瑠の華奢な身体を、強く、そして切実に抱きしめていた。

「……波瑠……！」

胸の奥から絞り出すような声が、彼女の耳元で震えた。
その声に、波瑠の心は張りつめていた糸が切れたように崩れていく。

「圭吾さん……」
涙が頬を伝い、彼の背に縋る。
自分から離れたはずなのに。
忘れなくてはいけないと思っていたのに。
いま、この腕の中がどれほど恋しかったかを思い知らされる。

「波瑠……！」
圭吾はもう一歩踏み込み、息を切らしたまま続ける。
「……離さない。もう二度と……どこにも行かせない」

波瑠は声を失った。
会いたいと願いながら諦めていた人が、いま目の前で必死に自分を呼んでいる。

胸に溢れる感情が、涙となって頬を伝った。
夕日の光が二人を包み込み、静かな浜辺に、再会の鼓動だけが響いていた。