籠姫と寡黙な皇帝と、転生皇后
第一章 転生と婚礼の日
――眩しい。
瞼の裏から差し込む光に、私はゆっくりと目を開けた。視界に広がったのは、見慣れない天蓋付きの大きな寝台と、金糸で縫い取られたカーテン。
「……ここ、は……?」
上体を起こした瞬間、記憶が奔流のように押し寄せる。
会社帰り、夜道で車のヘッドライトが迫ったこと。
そして、その直後――なぜか私が前世で夢中になって読んでいた異世界小説の“皇后”の身体にいること。
(……よりにもよって、悲劇の皇后?)
その小説の皇后は、皇帝に愛されず、籠姫という寵姫に嫉妬され、やがて命を落とす。物語の序盤で退場する、哀れな女性。
けれど今、鏡の向こうに映るのは、可憐な容貌と儚げな微笑みをたたえた“私”。この世界では今日が――
「陛下がお越しです」
扉の外から侍女の声が響く。
深呼吸ひとつ、私は皇后としての最初の一歩を踏み出した。
謁見の間の扉が開くと、そこに立っていたのは、長身で整った顔立ちの男。漆黒の髪、鋭い金の瞳。
彼こそ、この国を統べる皇帝――カリス・ヴァルディア陛下。
「……お初にお目にかかります、陛下」
私が深く礼をすると、彼は無言のまま歩み寄り、わずかに頷いた。
「……遠路、よく来た」
低く抑えた声。その響きに、胸がわずかに震える。
しかし、その横には、まるで当然のように寄り添う女性がいた。
「陛下、今宵は婚礼の日ですもの。どうか、お幸せになられて」
白いドレスに身を包み、甘やかな声を響かせる彼女――それが籠姫エルミナ。
皇帝の幼馴染であり、籠の中の宝石と称される存在。だが小説では、この人こそが皇后を追い詰める意地悪姫だ。
「……ありがとう、エルミナ」
カリス陛下は短く返す。そのやりとりに、私の胸にわずかな痛みが走った。
(やっぱり、この人の心は――)
だが今は、感情を押し隠すしかない。
私の笑みは、礼儀正しさだけを湛えていた。
婚礼の宴は豪奢に始まった。
煌びやかな燭台、絢爛な衣装の貴族たち。
私は皇帝の隣に座り、杯を手に取った。
「陛下は……甘いお酒は、お好きですか?」
勇気を出して話しかけると、彼は少しだけこちらを見る。
「……苦手だ」
「では、この果実酒は……」
「構わん。そなたが勧めるなら」
その短いやり取りに、妙な温もりを感じた。
だがその瞬間――
「まあ、皇后陛下。お気をつけになって」
エルミナが袖を掴み、私の杯を傾ける。中身がドレスにこぼれ、淡いピンク色の染みが広がった。
「……っ」
「失礼、手が滑ってしまいましたわ」
エルミナの瞳は笑っていなかった。
周囲の視線が痛い。だが、隣のカリス陛下は何も言わず、静かにナプキンを手に取った。
「……冷える。着替えを」
短くそう告げると、自ら私のドレスの裾を押さえ、布でそっと拭った。
その動作は意外なほど丁寧で、指先がかすかに震えているのを私は感じた。
(この人……無関心なわけじゃない?)
心の奥に、小さな灯がともる。
夜更け、婚礼の部屋。
私は窓辺で月を眺めていた。静かな背後から、低い声が届く。
「……この宮廷は、居心地が良くないだろう」
振り返ると、カリス陛下がそこにいた。
「けれど……陛下がいてくださるなら、私は大丈夫です」
自分でも驚くほど素直な言葉だった。
彼の瞳が一瞬だけ揺れる。だが次の瞬間、視線を逸らし、背を向けた。
「……休め」
その背中は、やはり遠い。
けれど――きっと、届く日が来ると信じたい。
瞼の裏から差し込む光に、私はゆっくりと目を開けた。視界に広がったのは、見慣れない天蓋付きの大きな寝台と、金糸で縫い取られたカーテン。
「……ここ、は……?」
上体を起こした瞬間、記憶が奔流のように押し寄せる。
会社帰り、夜道で車のヘッドライトが迫ったこと。
そして、その直後――なぜか私が前世で夢中になって読んでいた異世界小説の“皇后”の身体にいること。
(……よりにもよって、悲劇の皇后?)
その小説の皇后は、皇帝に愛されず、籠姫という寵姫に嫉妬され、やがて命を落とす。物語の序盤で退場する、哀れな女性。
けれど今、鏡の向こうに映るのは、可憐な容貌と儚げな微笑みをたたえた“私”。この世界では今日が――
「陛下がお越しです」
扉の外から侍女の声が響く。
深呼吸ひとつ、私は皇后としての最初の一歩を踏み出した。
謁見の間の扉が開くと、そこに立っていたのは、長身で整った顔立ちの男。漆黒の髪、鋭い金の瞳。
彼こそ、この国を統べる皇帝――カリス・ヴァルディア陛下。
「……お初にお目にかかります、陛下」
私が深く礼をすると、彼は無言のまま歩み寄り、わずかに頷いた。
「……遠路、よく来た」
低く抑えた声。その響きに、胸がわずかに震える。
しかし、その横には、まるで当然のように寄り添う女性がいた。
「陛下、今宵は婚礼の日ですもの。どうか、お幸せになられて」
白いドレスに身を包み、甘やかな声を響かせる彼女――それが籠姫エルミナ。
皇帝の幼馴染であり、籠の中の宝石と称される存在。だが小説では、この人こそが皇后を追い詰める意地悪姫だ。
「……ありがとう、エルミナ」
カリス陛下は短く返す。そのやりとりに、私の胸にわずかな痛みが走った。
(やっぱり、この人の心は――)
だが今は、感情を押し隠すしかない。
私の笑みは、礼儀正しさだけを湛えていた。
婚礼の宴は豪奢に始まった。
煌びやかな燭台、絢爛な衣装の貴族たち。
私は皇帝の隣に座り、杯を手に取った。
「陛下は……甘いお酒は、お好きですか?」
勇気を出して話しかけると、彼は少しだけこちらを見る。
「……苦手だ」
「では、この果実酒は……」
「構わん。そなたが勧めるなら」
その短いやり取りに、妙な温もりを感じた。
だがその瞬間――
「まあ、皇后陛下。お気をつけになって」
エルミナが袖を掴み、私の杯を傾ける。中身がドレスにこぼれ、淡いピンク色の染みが広がった。
「……っ」
「失礼、手が滑ってしまいましたわ」
エルミナの瞳は笑っていなかった。
周囲の視線が痛い。だが、隣のカリス陛下は何も言わず、静かにナプキンを手に取った。
「……冷える。着替えを」
短くそう告げると、自ら私のドレスの裾を押さえ、布でそっと拭った。
その動作は意外なほど丁寧で、指先がかすかに震えているのを私は感じた。
(この人……無関心なわけじゃない?)
心の奥に、小さな灯がともる。
夜更け、婚礼の部屋。
私は窓辺で月を眺めていた。静かな背後から、低い声が届く。
「……この宮廷は、居心地が良くないだろう」
振り返ると、カリス陛下がそこにいた。
「けれど……陛下がいてくださるなら、私は大丈夫です」
自分でも驚くほど素直な言葉だった。
彼の瞳が一瞬だけ揺れる。だが次の瞬間、視線を逸らし、背を向けた。
「……休め」
その背中は、やはり遠い。
けれど――きっと、届く日が来ると信じたい。
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