籠姫と寡黙な皇帝と、転生皇后

第ニ章 籠姫の挑発

 婚礼の翌朝、寝台脇のカーテンがゆるやかに引かれ、柔らかな光が差し込んだ。
「皇后陛下、朝餉のお支度が整っております」
 控えめな声の主は若い侍女――ティナ。大きな瞳に緊張を浮かべている。

「ありがとう、ティナ。……大広間へ?」
「はい。本日は陛下もご同席のご予定と……」

 胸がわずかに高鳴る。昨夜、彼はそっけなくも私を気遣った。あれが冷たさの仮面の隙間なのだと信じたい。
 身支度を整え、私はティナと共に廊下へ出る。長い回廊は静まり返り、衛兵たちの甲冑が光を弾いていた。



 長卓の端、皇帝カリスは既に席にいた。
「……おはようございます、陛下」
「うむ」
 短い返事。それだけなのに胸の奥が温かい。席に着くと、銀蓋の下から香草のスープが現れ、湯気が立った。

「昨夜はよく眠れたか」
「ええ、おかげさまで」
「……そうか」

 それだけで会話が途切れるのが、この人らしい。沈黙が苦ではないと伝えたいのに、言葉が見つからない。
 そこへ、妓楼の香りにも似た濃密な香がして、白いドレスの裾が私の視界を横切る。

「陛下、朝のご機嫌はいかが?」
 鈴のような声。籠姫エルミナが、当然のように皇帝の隣へ立った。
「エルミナ」
 陛下は視線だけで挨拶を返す。彼女は涼やかに笑い、私の前へ一歩。

「皇后陛下。昨夜はさぞお疲れだったでしょう? 宮中の作法はお難しくて。――あら、ナプキンは内側二つ折りが基本ですの。外へ折るのは“庶民式”。覚えておかれて?」
「……ご指導、痛み入ります」
 私は微笑む。折り方はどちらでも失礼ではないはずだ。わざと聞こえるように貴族夫人たちがくすりと笑う。

 エルミナは小さな蜂蜜壺を持ち上げ、私の皿のパンに目を留めた。
「甘いものは、朝のご機嫌を直してくれますわ。――陛下はお嫌いだったかしら?」
「……甘味は控える」
「まあ、相変わらずね」
 彼女は楽しげに肩をすくめ、私の皿に蜂蜜を垂らそうとして、ふと手を止めた。
「あら失礼、皇后陛下は蜂蜜が苦手だとか?」
「いえ、私は大丈夫です」
「そう。なら、召し上がって。――陛下の好みは私がいちばん知っておりますの」

 言葉は笑顔に包まれ、棘だけがきれいに研がれている。私はパンに蜂蜜を少しだけ塗り、口に運んだ。
 視線を上げる。無表情に見える皇帝の金の瞳が、わずかに細められていた。
「……食べ過ぎるな」
「はい」
 それが心配から出た一言だと、どうして分かってしまうのだろう。



 朝食ののち、私は侍女たちと礼法の確認をしていた。
「皇后陛下、本日のご予定です」
 侍従長バルトが巻物を差し出す。
「午後――“月の園”にて茶会。主催は……籠姫様」
 ティナが小さく息を呑んだ。
「月の園?」
「宮廷内で最も美しい庭園でございます。水鏡と呼ばれる泉があり……籠姫様の“お城”のような場所です」
「なるほど」

 私は胸の内で呟いた。



 午後、月の園は青い空を映していた。白い藤棚、薄い翡翠色の池。噴水の音が涼を連れてくる。
 丸卓にレースが敷かれ、磁器が陽を受けて煌いた。既に貴婦人たちが集い、その中心でエルミナが微笑んでいる。

「まあ、皇后陛下。よくいらして」
「お招き、感謝します」
「今日は特別に、辺境でしか採れないというお茶を取り寄せましてよ。――わたくし、皇后陛下にぴったりだと思いましたの。はかなげな香りですもの」

 辺境。言葉の選び方が巧い。
 侍女が急須を傾ける。その手が震えたのか、湯が少し飛び散り、侍女の手の甲に白い跡が走る。
「熱っ――」
 反射的に私は立ち上がって手首を取り、ティナに目配せした。
「冷水と清潔な布を。あと、蜂蜜をほんの少し」
 蜂蜜?と周りがざわつく。
「軽いやけどなら、砂糖より蜂蜜の方が傷を覆ってくれます。傷面を広げないようにごく薄く。――医師を呼ぶほどではありません」

 エルミナが片眉を上げる。
「まあ、皇后陛下はお医者さまの真似事もなさるの?」
「真似事でも、困っている人を前に黙っていられませんから」
 私の声は震えていなかった。侍女の目が潤み、深々と頭を下げる。

「……続けましょう」
 エルミナは微笑を深め、今度は別の手札を切る。
「皇后陛下には、わたくしの“特別な友人”をご紹介したくて。――宮廷歌手のレア」
 現れたのは黒髪の歌姫。彼女は私に柔らかく会釈した。
「光栄です、皇后陛下」
「こちらこそ」

 その瞬間、エルミナは無邪気な声で言い放つ。
「レアはね、陛下がお忙しい夜、よくわたくしと音楽を楽しんでくださるの。――皇后陛下は音楽、お好き?」
 周囲がわざとらしく静まる。
「好きです。ただ、上手ではありません」
「まあ、練習なさるといいわ。――宮中は退屈でしょうし」

 笑いが波紋のように広がる。ティナが袖をつまんだ。私は軽く頷き、笑みで返す。
 そこへ、石畳に規則正しい靴音が近づいた。衛兵たちが道を開ける。
 金の瞳が光に細って現れる。
「陛下……!」
 貴婦人たちの声が揃う。カリスが月の園へ足を踏み入れ、まっすぐこちらを見た。

「視察の途中だ」
 短い言葉に、空気が引き締まる。彼は卓の縁まで来ると、ふと侍女の包帯に目を留めた。
「……その手」
「皇后陛下が処置を」ティナが慌てて頭を下げる。
 カリスは私と包帯を順に見、低く呟いた。
「……適切だ」
 たったそれだけで、泉の水音が澄んだ音に変わった気がした。

「まあ陛下、皇后陛下は本当に器用でいらして」
 エルミナが笑う。
「――ところで、昨夜の蜂蜜、覚えていらっしゃる? 陛下はお嫌いだって」
「覚えている」
「だから、今日は蜂蜜菓子をお出ししないように、と。ね?」
 彼女の“ね?”は私に向けられていた。
「配慮に感謝する」カリスの声は平坦だったが、視線は一瞬、私の皿で止まった。
 そこには蜂蜜を使わない、素朴な焼き菓子が置かれている。誰が気を利かせたのか――ティナが小さく胸を張っているのが見えた。

 エルミナは不意に扇で口元を隠し、視線を巡らせる。
「そういえば皇后陛下、宮廷の“花の名”をご存じ?」
「花の名?」
「妃や貴婦人にそれぞれつけられる呼び名よ。たとえば私は“白百合”。――清らかさの象徴だもの」
 周囲が「さすが」と囁く。
「では皇后陛下には……そうね、“野すみれ”なんてどうかしら。可憐だけれど、少し地味。野原にそっと咲いている感じ」
 扇の影の笑顔には毒があった。

 私は微笑んだ。
「野すみれは強い風にも倒れませんし、土を選ばず咲きます。宮廷でも、辺境でも。――素敵な名ですね、気に入りました」
 貴婦人たちの間で、誰かが「まあ」と息を呑み、別の誰かが小さく笑った。
 エルミナの瞳が一瞬だけ細くなる。
「……そう。お似合いよ、“野すみれ”」
 扇がぱちりと閉じられ、茶会は滞りなく――表向きは――進んだ。



 夕暮れ、回廊を歩いていると、背後で足音が急ぎ足になる。
「皇后陛下!」
 呼び止めたのは文官の青年レオン。控えめな気配の人だ。
「先ほどは見事でした。籠姫様の“花の名”の件……あの場で返し切れる方は少ない」
「褒め言葉として受け取っておきますね」
 彼は周囲を見回し、声を落とした。
「月の園での茶会は“序曲”に過ぎません。籠姫様は次の『月下の小演奏会』を用意なさっている。今度は、皇后陛下の“音楽”を話題にされるでしょう」
「私が音痴だと、皆の前で?」
「……そこまでは。けれど、ご用心を」

 私は頷き、ふと尋ねた。
「レオン、あなたはどうして私に忠告を?」
「陛下は宮廷の柱。柱を支える梁が揺らげば、宮も揺れる。――皇后陛下が倒れれば、柱は孤立する」
 彼の瞳には打算だけではない光があった。
「助かります。……ありがとう」

 別れ際、ティナが袖を引く。
「皇后陛下、今夜は――」
「わかってる。“小演奏会”が来る前に、音を外しすぎない程度には練習しておきましょう」
 私は微笑んだ。前世、動画で見た“初心者向け発声法”が役に立つかもしれない。



 夜。執務室の扉を叩くと、低い「入れ」が返る。
「夜分に失礼します」
 カリスは書類から顔を上げた。
「……茶会はどうだった」
「穏やかでした。少し、蜂蜜が恋しくなるくらい」
 彼の指がわずかに止まる。
「……侍女のやけど、聞いた」
「大事には至りませんでした」
 沈黙。灯が揺れ、彼の横顔に影を落とす。

「……余は、宮中のしきたりを改めるべきかもしれん」
「しきたり?」
「茶会に必要以上の“儀”を求める風習が根付いている。誰かを貶めるためのものに堕したなら、害だ」
「……それは、きっと誰かがやめようと言わなければ、続いてしまうものですね」
「そうだ」
 彼は視線を落としてから、ごく小さく続けた。
「……すまぬ」
「え?」
「余の側で起きたことだ。余が、気づけなかった」

 胸が熱くなる。
「謝るのは、私の方です。私が、もっと上手に立ち回れたら――」
「違う」
 短く、強い否定。
「そなたはよくやっている」
 まっすぐな金の瞳。呼吸が浅くなる。

「陛下」
「何だ」
「“野すみれ”って、可愛い名前ですよね」
「……?」
「今日、いただいた呼び名です。強い風にも倒れない花だそうです」
 彼はほんの少し考えてから、机上の鈴を鳴らした。
「花を」
 現れた侍従が驚き、すぐに走り去る。ほどなくして、小さな紫の花束が運ばれた。
「……宮廷の温室で育てたものだ。気に入るなら」
「ありがとうございます」
 花を抱きしめると、香りがひどく懐かしかった。前世の道端に、確かにこんな花があった気がする。

「それと」
 彼は視線を落とし、言いにくそうに続けた。
「明晩、“小演奏会”があると聞いた。出るのか」
「招待状が来ました」
「……歌は」
「得意では、ありません」
 正直に言うしかない。
 カリスは少しだけ考え、机の引き出しを開けた。古い黒い箱を取り出して私に渡す。
「これは?」
「母の形見の“共鳴石”だ。小さく声を響かせる。音を外しにくくなる」
「そんな大切なものを……」
「返さなくていい」
「え?」
「そなたが持っていろ。――“野すみれ”に、風は強すぎる」

 胸の奥で何かがほどけた。
「……はい。大切にします」
 彼は頷き、わずかに表情を和らげる。
「遅い。休め」
「おやすみなさい、陛下」
 扉へ向かう足取りは、来たときより確かだった。



 部屋に戻ると、ティナが小さく笑う。
「皇后陛下、お顔が明るいです」
「そう見える?」
「はい。――明晩のご準備、わたしもお手伝いします。発声の練習なら、窓に向かってやると声が遠くへ出ます」
「よく知ってるわね」
「わたし、歌は好きなんです。……上手では、ありませんけど」
「なら、いっしょに練習しましょう」

 私たちは小さく声を合わせて、月の園へ届かないほどの音量で歌ってみる。
 笑って、噛んで、また笑った。
 それは滑稽で、でもたしかに温かい時間だった。

 窓の外、夜風がレースを揺らす。
 遠く、噴水の音が小さく響く。
 籠姫の挑発は終わらないだろう。むしろ、これから本気を見せてくるはずだ。
 けれど――私には、握った小さな花束と、掌に温い石がある。
 胸の奥に灯った火は、もう簡単には消えない。

 明晩、月下の小演奏会。
 “野すみれ”は、歌う。
 震えながらでも、前を向いて。
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