教科書に笑う顔

第1話 普通の朝

「おはよう」
「おはよー」
学校の玄関であいさつして、上ばきを履く。廊下は少しむっとする。教室のざわざわはいつもどおりだ。
私は高橋明美、十五歳。ふつうの私の、ふつうの一日が、今日も始まるはずだった。

席にカバンを置く。前髪が落ちたので、ピンでとめる。
斜め前の美優が来る。
「ねえ、明日の小テスト、範囲どこ?」
「漢字、ぜんぶ。たぶん」
「ぜんぶはムリ〜」
前の席のケンタが振り向く。
「今日、部活?」
「ある。持久走」
「がんばれ」
それで会話は終わり。ふつうの朝だ。

日直の号令。「起立、礼、着席」
一時間目の数学、シャーペンの芯が一度ポキッと折れ、美優が「替芯ある?」と手を伸ばす——私は一本渡した、それだけ。
二時間目は社会。地図に印をつける。
三時間目は英語。はっきりしない発音に笑いが少し出る。
時計は予定どおり進む。

四時間目、国語。
田中先生が言う。「国語の教科書、四十八ページ開けて」
私は教科書を出して開く。紙が指に吸いつく。開いた瞬間、目の前がチカッとゆらぎ、鳥肌がぶわっと立った。すぐに元へ戻る。

黒板の字はふつうに読める。後ろの席の椅子脚がキィと一度だけ鳴り、上ばきが床をこする音がやけに近い。
「今、風あった?」と美優。私は首を横に振る。
それなのにページの角がふるふる震えた。

ページの中に挿絵がある。旅の女の人がこちらを見ている。
口角のところだけインクの点々が濃く、すこししわの影が見えた。笑っているように見える。
前髪の分け目と、まつげの角度が、私に少し寄って見える。でも、うまく言えない。気のせい、と言えばそう言える。

黒板のチョークがコトンと転がり、前列が一瞬ざわついた。美優が私の袖についた消しゴムの粉を指で払って、小さく「起きてる?」と笑う。「起きてる」と返しつつ、私はペンを一回カチと鳴らした——その音だけが胸の奥でやけに跳ね、目がまた挿絵へ戻った。

もう一度、挿絵を見る。
やっぱり、どこかが違う気がする。理由は出てこない。
チャイムが鳴る。片づけの音が広がる。
私は教科書を閉じようとして、最後にもう一度だけ顔を近づけた。
海のにおい。指の腹に紙のざらつき。
「気のせいだよね」と心の中で言う。

目を教科書から離そうとした。その一瞬だけ
——挿絵が『にやり』と笑ったように見えた。
私は恐怖で声も出せなかった。冷や汗が背中を流れた。
< 1 / 6 >

この作品をシェア

pagetop