甘く溶かして、溶け込んで。
一、塩味のエクレア
ふと、死ぬのが怖くなくなった。
何か特別な理由があったのかと聞かれると、あまり自覚はないのだけど。
「篠崎さん、これよろしくね」
「──はい」
唐突に現実に引き戻される。上司が置いていった書類の山を見ても、何も思わなくなったのはいつからだっただろうか。私はホチキスでそれらを10枚綴りに纏めながら、過去の記憶に思いを馳せていった。
丁度今から、3年前。私は高卒のままバイトでこの会社に事務補助員として採用され、その1年後には正社員の事務員として雇用されることが決まった。
嬉しかった。頑張りが認められたようだったから。でも、途端に扱いが変わったのは、なぜなのか。
未だに理解できないのは、私がまだ未熟だからだろうか。それともやはり、この会社がおかしいのだろうか。
どれだけ疑問に思っても、それを聞く相手も、答えてくれる相手もここにはいなかった。
「篠崎さん。次これもね」
「はい」
出社してから、おはようございます、お疲れ様です、はい、かしこまりました、くらいしか発していないのは、やはり異常ではないだろうかと私は思う。
社員になると、毎度のこと言われるようになったことがある。「若いからすぐ覚えるよね」とか、「もうバイトじゃないんだから自分で考えて動こうね」とかだ。
いや、分かってる。それが当たり前だってことくらい。だから私も頑張った。もっと頑張らなきゃってやる気に満ち溢れていたと思う。
でも、それがいつの間にか当たり前になりすぎて、誰も何も褒めてくれなくなっていた。
「山田さん。できました」
「あぁ、そこ置いといて」
いつからか、お礼も言われなくなっていた。
当たり前だからだ、全部。
それを心のどこかで変だ、おかしいと感じでいたからだろう。いつしか私は、笑い方さえ忘れてしまったのだった。
***
「今度の金曜。夜空けといてね」
そんなある日のこと。高校からの友人である美琴から、数日ぶりの電話が入って、開口一番そう言われた。
「金曜?」
「そう、金曜。合コンしよ」
「え、私はいいよ。そういうの」
「ダメダメ。もう決定事項だから。人数合わなくなっちゃうでしょ?」
美琴は昔から、色々と強引な性格だった。どちらかというと大人しい私とは正反対の性格だったけど、それが逆に幸をなした結果、今も友人関係が続いている。
メンバーは私と美琴の他に、美琴の勤めている会社の同僚女子2人と、その同僚伝いで呼んだ男性4人の計8人。
「⋯⋯多くない?」
「何言ってんの。普通よ、普通」
それでね?、と美琴は尻込みする私を放って、集合場所と時間や相手の男性陣の職業なんかをサラサラっと口にして、通話を切ってしまった。嵐のようだった。
そして、魔の金曜日を迎える。
「じゃあとりあえず、かんぱぁい〜!」
ガツンッとグラスのぶつかる鈍い音を響かせながら、美琴の勢いに乗るように私以外の全員が生ビールを煽っていく。対する私はというと、ビールは飲めないのでカシスオレンジを一口飲むだけに留めておいた。元より、お酒もこういう居酒屋も賑やかな場所も、得意ではない。
「んま〜!」
「うわ、いい飲みっぷり」
美琴の豪快な飲みっぷりに、一人の男性が感心したような笑顔を見せた。彼は佐香貴大さん。IT系の会社に勤めていて、趣味はジムに通うことと最初の自己紹介で言っていた爽やか男子だ。
そんな彼の向かいに座っている美琴はというと、やっぱり目が獲物を狙う女になっている気がした。無理もない。佐香さんは美琴のタイプど真ん中なのだから。
「佐香さんももっと飲んでくださいね?」
「ありがとう」
カンッと2人のグラスが合わさる音が響いた。たぶん、そういうことになりそうだなと考えながら、私は目の前の小皿に唐揚げを乗せて、それを一口齧った。
中盤くらいになると、みんな程よく酔いが回って、最初の緊張なんてすっかり忘れ去って楽しんでいる。
──私を覗いて。
「おかわりは?」
「⋯⋯え?」
不意にかけられた声に、掴んでいた卵焼きが箸から滑り落ちて、小皿に戻った。
「グラス。なんか飲む?」
視線をあげると、私の丁度向かいの席に座った彼と目が合って固まった。あれ、この人席向こう側じゃなかった?
「変わってもらった。奥の方が静かそうで」
「えっ」
「声にでてないよ。予想しただけ」
思わず口に当てた手を、おずおずと下に下ろして、視線を彷徨わせる。
「⋯⋯篠崎百合さん、だよね。大丈夫?」
「は、はい」
「あは、たぶん嘘。こういうの苦手でしょ?」
「そんなことは、」
「ある?」
疑問形、なのに否定させるつもりはないような雰囲気を感じて、私は小さく頷いた。
すると満足気に彼は微笑んで、私の前にソフトドリンクのメニュー表を開いて差し出す。
「どれがいい?」
「⋯⋯烏龍茶で」
「了解」
片手を上げ、近くを通りかかった店員を呼び止めた彼は、そのまま他のメンバーの飲み物と料理を何品か追加して注文していく。
瀬野誠。佐香さんと同じ会社に勤めている同僚で、その優しい雰囲気が整った彼の顔によく似合っていると思った。
他の女子達も彼を狙っていたようだが、二言三言交わしてこちらに戻ってくる彼の背中を、名残惜しそうに見つめる姿が視界に写る。
「それ美味しい?」とその視線に気付いているのかいないのかは分からないが、彼はまた私の前に腰を下ろすと、小皿の中の卵焼きを一瞬視線でさして首を傾げた。
「美味しい、です」
「甘い?」
「はい」
その答えがお気に召したらしく、彼はじゃあ食べようと大皿から卵焼きを一切れ取って、口に入れた。
美味しいって顔に書いてある、そう思いながら、私は自分の分の卵焼きを口に入れる。
そうこうしているうちに、注文していた飲み物が先に運ばれてきた。彼は烏龍茶を私に渡して、ハイボールを自分の手元に置いた。
「吉岡さんと友達なんだっけ?」
吉岡、とは美琴の名字である。
「はい。高校のときから」
「へぇ、いいね。そういうの」
「あの、佐香さんと瀬野さんは?」
「俺ら?は⋯⋯腐れ縁?幼馴染みたいな」
「みたいな?」
「そ。何回か俺が引っ越しては戻り、引っ越しては戻りってしてたから。親が転勤族でね」
「そうだったんですね」
「うん」
なんだろ。なんだか、不思議な感覚がする。
彼と話していると、辺りの空気が変わるというか。時間がゆっくり進んでいく気がして、変な緊張も、焦りも感じなかった。
「⋯⋯お、来た来た」
追加注文した料理が届くと、彼は少し嬉しそうに目を輝かせて、取り皿にそれを乗せた。
「山芋?」
黒くて丸い鉄板の中に敷きつめられた白い物。
「そう。山芋。食べれる?」
「はい、好きです」
「俺も」
どうぞ、と取り分け用のスプーンで新しい小皿に載せてくれたそれは、トロトロとしてとても熱そうだった。
「山芋のチーズがけ。熱いから気をつけて」
「ありがとうございます」
念入りに息で冷ましてから口に入れたのに、まだまだ熱くて慌てて口を両手で覆う。
トロトロした山芋とチーズの濃厚さがマッチしていて、とても美味しかった。
「美味しい」と彼に視線を向けると、まるで自分が作ったかのように誇らしげに「そうでしょ?」と彼は笑った。それが何だかおかしくて、私も少しつられてしまったけど。
他の人達も食べるのかなと目をやると、あっちはあっちで盛り上がっているようで、グラスを合わせて楽しげに笑顔を浮かべているのが見えた。
「いいんじゃない?酔っぱらいは放っといて」
そう言った彼の手は、遠慮なく山芋を小皿に乗せていて、一人分ほど残したそれを、私の小皿に入れてくれた。
***
二十一時を回った頃。
その店でお開きになるかと思いきや、二次会はカラオケだと美琴を中心に盛り上がりが増していた。
いやいや、と内心苦笑しつつも、私はどうこの場を切り抜けようかと思惑する。
「じゃあ、俺この辺で」
途端、最初に声を出したのは瀬野さんだった。「えぇ〜?」と不満気な声を出す他のメンバーに押されることもなく、彼は笑って「じゃあお疲れ様」と片手を振り、歩き出した。そして途中で足を止め、肩越しに振り返る。
「篠崎さんもでしょ?」
「⋯⋯へ?」
「駅」
「あ、はいっ」
一瞬、彼の言葉に固まった。
「百合も帰っちゃうのぉ?⋯⋯まぁ、いいや!二人とも、お気をつけて〜」
何かを察したような顔をして、ニヤニヤしながら私達に手を振る美琴。その隣で佐香さんもちょっと楽しげなのはなぜだろう。
違うからと否定するまもなく、彼らはカラオケへと向かってしまったのだけど。
「行こっか」
対する彼の方は特に気にせずといった感じで歩き出してしまったので、私も慌ててその後を追いかける。
少し距離を空けて、彼と並んで駅までの道を歩いた。何か話すわけでもなく、ただ無言で夜の街並みの中を歩くだけだったのに、それが酷く落ち着いた。
駅が近くなると、彼は不意にコンビニに寄ろうと言って、二人で中に入った。
「これこれ。甘いの欲しかったんだよね」
「⋯⋯エクレア?」
彼が一目散に向かったのは、デザートコーナー。その棚の一番下に置かれていたエクレアを一つ手に取ると、「篠崎さんは?」と首を傾げてくる。
「えっと⋯⋯」
「別になんでもいいけど。アイスとか」
「じゃ、じゃあ、同じのにします」
「了解」
「えっ?」
違う、そういう意味では、と焦る私を見越したかのようにして、彼は得意気に目を細めて笑いながら、二つのエクレアをレジに持っていってしまった。
「あ、あのっ、払いますから」
「クレジットカードで」
「あのっ」
「袋はひとつで大丈夫です」
「聞いてますっ?」
「どうも」
全然聞いてくれないっ!
「あの、瀬野さんってば!」
「なに?」
コンビニを出て少し先を歩く彼に追いつくと、楽しげな目でこちらを見る彼と目が合った。
「なにじゃなくて、お金払います」
「いりません」
「ダメです」
「嫌です」
べ、と軽く舌を出して子供っぽい笑みを浮かべながら、彼は軽く駆けて行ってしまう。それを追いかけると、今度は駅前広場のベンチに辿り着き、彼はそこに腰を下ろした。
トントン、と隣の空いたスペースを叩いた彼が、視線で私をそこに呼んだ。
「⋯⋯納得いきません」
「真面目だなぁ。奢られとけばいいのに」
クスクス笑いながら差し出されたエクレアを、彼の隣に腰を下ろしながら受け取った。
「初対面なのにおかしいです」
「初対面だからいいんでしょ?後腐れないし」
バリッと袋の破ける音がして、彼がわりと大きめの口でエクレアを齧った。
私も静かに袋をあけて、彼に比べたらかなり小さいであろう口をあけて、齧る。
「⋯⋯美味しいです」
口の中に広がる甘さに、自然と頬が緩んだ。そういえば、最後に甘い物を食べたのは、いつだっただろう。
仕事と家の行き来ばかりで、本当はこういう甘いスイーツやお菓子が大好きだったはずなのに、いつの間にか卵かけご飯とかインスタントラーメンとか。
そういう、とりあえず生きるために食べておこうみたいな食事ばかりだったなとふと思った。
「篠崎さんってさ」
「はい」
「もしかしてだけど、死のうと思ったことある?」
──空気が、凍る。
「⋯⋯図星?」
「なんで、ですか?」
「俺と同じ目してたから」
引き寄せられるように、彼の方に顔を向けた。
「ほら、バレたって顔してる」
無意識に、エクレアを持つ手に力が籠った。
そうだ。そうだったんだ。彼と一緒にいると酷く落ち着くのも、穏やかは気持ちになれるのも、全部、全部。
彼が私を、私よりも理解していたからなんだ。だから傍にいると落ち着いた。取り繕わなくてもいいから。気を張らなくていいから。素のままの自分でいていい。
だってそれを、彼は咎めたりしないから。
「いいんじゃない?思うのは自由でしょ?」
ほら、と誰でもない誰かに主張する。
彼はやっぱり、否定しなかった。正そうとしなかった。それでいいと、肯定してしまったじゃないか。
また美味しそうにエクレアを齧る彼の横顔を眺めながら、私は震える唇を少し噛んで、目を伏せた。
「⋯⋯初めて、言われました。母に一度零してしまったときは、冗談言わないでって笑われて、頑張りなさいって言われるだけだったから」
そう、だから愚痴の一つも零せなくなった。また否定されて笑われたら、自分が傷つくと分かっていたから。
「だから、驚いて、」
「頑張ったからそうなったのにね」
ふわりと柔らかな笑みを浮かべながら、彼は一瞬私の顔を覗き込んで、また姿勢を戻して最後のエクレアを口に放り込んだ。
でも、そんな彼の言葉に心臓がドクッと脈を打つ。そう、そうなのだ。
私はすでに頑張ったのに、頑張ったからこうなったのに、そのはずなのに、誰もそれを認めてはくれなかった。それが何より悔しくて、悲しくて、やっぱり私はまだまだなんだろうかと自分で自分を責めることしかできなくなった。
そうしているうちに、笑い方を忘れ、好きな物を食べることも忘れ、自分が自分でなくなっていくことにも気づくのが遅れてしまったのだろう。
「⋯⋯大丈夫。まだ泣けるよ」
その言葉に、ハッとして頬に手を当てた。
「わた、し」
「甘い物食べるとさ、泣きたくなるくらい元気が出るって、知ってた?」
その日食べたエクレアの味は、甘くてしょっぱくて、忘れられない味になった。