許婚の犬神クンには秘密がある!

【第十九話】犬神クンの好きな人!

「九月からアメリカで暮らす?」
「一人で転入手続き、面倒だろうと思ってね。そのために日本に来たんだ」
「転入?・・・そんな急に言われても」
「聖マリアンヌじゃ特Aクラスなんだろう?そのレベルなら、うちの中等部への転入試験なんて普通にパスできるよ」

 お兄ちゃんは席を立つと、グルグルと動くレコードから針を上げた。軽やかな戦慄がピタリと止まり、重苦しい沈黙が広がっていく。
 テーブルの隅に置いてあった書類を、私の前にずらりと並べ出した。それはお兄ちゃんが通っている大学の中等部のパンフレットだった。その下に、転入手続きの書類が何枚かある。
 予想していなかった話に理解が追いつかない。お兄ちゃんは、冗談を言うタイプではない。だから。これが本気だと言うことは確かだ。

「ま、待ってお兄ちゃん。・・・私、今年の春入学したばかりだよ?今留学なんて」
「留学じゃないよ。九月に入学してアメリカで暮らすんだ。転入だね。あっ、この書類印鑑いるのか。日本の手続きって、本当に面倒だよね。千保、印鑑持っておいで」

 お兄ちゃんは紙の書類に目を通すと、その書類を私の前に置いた。その横には、サインをするためのボールペンまで用意されている。
 口の中が急に乾いていく。ビネガーに手を伸ばそうとした。だけどお兄ちゃんの視線が、こちらに向けられていてそれができない。ゴクリと唾を飲み込んだ。

 私は、私なりに考えて聖マリアンヌを選んだのに。数か月過ごしてみて、ここでならやっていけると思った。手を膝に置いたままの私に、お兄ちゃんは首を傾けた。

「千保?」
「ごめんお兄ちゃん。それはできないよ」

 お兄ちゃん目を丸くした。はっと息を吐くと、笑顔を張り付けた。

「どうして?聖マリアンヌに入る前は、そういう話だっただろう?」
「それは・・・」
「千保は僕が通っている大学の中等部に入学する。そのつもりで、僕は向こうで準備していたのに。・・・僕の知らないところで、千保とお父様が勝手に日本の中学に決めた」
「だから、入学式に来てくれなかったの?」
「そうじゃない。忙しかったのもあった・・・。だいたい年頃の女の子が、一人で暮らすなんて危ないだろ」
「私は日本で暮らしたいの・・・。優君がいるから」
「許婚の話はお父様が、勝手に決めたことなんだ。千保はもっと自由に恋愛していいし、パートナーだって、ゆっくり見つければいいんだよ。千保と優一郎が結婚しなくたって、僕ら西条寺と犬神はビジネスパートナーとして充分成り立っていけるよ」

 静かな声で淡々と話すと、グラスを口にした。
 今までお兄ちゃんに、意見したことはない。お母様が亡くなって以来、お兄ちゃんは兄でもあり、時には親代わりでもあった。きっと今回のことも、私のためを思って言ってくれている。

「お兄ちゃんに、相談なしで聖マリアンヌに入学したことは謝るよ。でも私は、優君と一緒にいたくて選んだの」
「だから優一郎のことなんて気にする必要ないだろう」

 珍しく、お兄ちゃんの語尾が強くなった。

「それに優一郎の体質のことを考えたら、将来どうなるかもわからない。治らない可能性の方が確率的には高いんだ。一生、犬のままになったらどうするんだ」
「あのね、お兄ちゃん・・・。それでも私が優君を好きなの。そうなってしまったら、私も一緒に治る方法を探したい。だから日本を離れたくない」

 ほんの一瞬だけ、お兄ちゃんの顔が強張った気がした。
 心のどこかで、それが不味いと伝達が走った。お兄ちゃんに、そんな顔をさせてはいけない。なによりも血を分けたお兄ちゃんには知ってもらいたい。

「聖マリアンヌでね、お友達もできたの!小学生のときは難しかったけど悩みを聞いてもらったりして、こないだ一緒にお買い物にも行ったのよ。今は日本での生活も楽しくて、それでね・・・だから―――」

 お兄ちゃんはテーブルの下で、静かに脚を組み直した。
 その瞳が、驚くほど冷たくなっていた。紡いでいた言葉を遮断された。

「例え千保がどんなに好きでも、優一郎が千保を好きになることはないよ」

 ゆっくりと、瞼を上げると、前にいる私を見据えた。

「どうして?」
「権力のない犬神家は千保が優一郎を好きだと言ってしまえば、優一郎の気持ち関係なしに了承するしかない。それじゃ優一郎が可哀想だとは思わないか?」
「そ、そんなこと・・・でも、私は真剣にっ」
「優一郎は千保を好きと言ったの?」
「言われてないけど・・・」
「だろ?千保が軽い気持ちで、好きと言うだけで優一郎は、この先誰かを本気で好きになったとしても、あきらめなければならない」

 反論しようと思うのに、言葉が出てこない。乾いていく唇を噛みながら、降ってくるお兄ちゃんの言葉に必死で抵抗しようとした。

「千保が抱く優一郎への『好き』は、昔から用意されたものを誰かに取られたくない、って言うわがままにしか僕には見えない」

 お兄ちゃんはテーブルに広がった書類をまとめていく。
 『違う』って早く言わなきゃ。私はちゃんと真剣に優君が好きだって。お兄ちゃんを引き留めようとすると、それを見計らったようにニッコリと微笑んで私の方を振り返った。

「よく考えてね千保。自分のことだけじゃなくて、相手のこともさ」

 パタンと静かにドアが閉まった。ドアの向こう側でお兄ちゃんの足音が遠ざかっていく。ドアを見上げながら、まめ蔵がクゥンと甘い声を出した。


『本気で好きになったとしても、あきらめなければならない』

『優一郎が可哀想だとは思わないか?』

 今はまだ、優君が私のことを好きじゃなくても、これから好きになってもらえるように頑張ろうと思った・・・。優君の好きな女の子に近づこうって。
 でも私がいることで、優君の将来の選択が失われてしまうの?

「ワンッワンッ」
「まめ蔵・・・」

 まめ蔵を抱きかかえると、いつものように私を見つめてくれた。
 優君は今まで誰かを、好きになったことあるのかな。も、もしそうだったとしたら。私が許婚だって暴露したことを怒るのも当然。

 片付かないままの食卓を前に、私は両手で顔を覆った――。
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