義弟の甘い罠は壊れるほど狂おしく【長編版】
*
律の運転で、私の自宅へと向かう道中。
エンジン音だけが車内に響く中、律が不意につぶやくように言った。
「兄さん、すごい人だったよね。……俺、敵わないやって、ずっと思ってた」
「え?」
そんな風に思っていただなんて意外だった。律だって彰人さんと同じで、器用になんでもできるタイプだから。
「いつも冷静で、的確で、周りからも信頼されててさ。……かっこよかったよ」
「律……」
「でも、そういう兄さんだから、姉さんにとって本当に大切な人だったんだろうなって思う。俺は、そういう存在にはなれないけどさ……」
最後の言葉は少し寂しそうだった。
律が握るハンドルにわずかに力がこもるのが分かる。
「そんなことないよ。私は律がいるから支えられてるの。今も、こうして一緒にいてくれてるじゃない」
そう言うと、律は照れくさそうに短く「うん」とだけ返した。
午前中の柔らかな光がフロントガラスから差し込み、律の整った顔立ちを照らしている。
律の職業はモデルだ。ファッション誌の一面を飾るほどの活躍をしているだけあって、どの角度から見ても非の打ちどころがない。
彰人さんのように冷静でクールなタイプとは正反対で、律はこうして感情がすぐに顔に現れる。職業柄、仕事中はプロとして完璧な仮面をかぶっているのだろう。でも、私の前ではこうして本音を見せてくれる。それが、義姉としてとても嬉しかった。
しばらく沈黙が続いて、律が再び口を開く。
「ねえ、姉さん」
「ん……?」
「もし、離縁しても……俺は姉さんの義弟でいられる……?」
その言葉に驚いて、思わず律の横顔を見た。
そうか、私たちに血のつながりはない。私が宝堂家を離れたら……世間的には兄弟ではなくなってしまう。だけど私は、今まで家族として一緒に過ごしてきた時間と、心のつながりを信じていた。
「そんなの、当たり前じゃない。私たちは兄弟同然で育ったのよ。律は私の義弟よ」
私がそう言うと、律の表情がほっと緩んだ。
家に近づくにつれ、私の胸の中には徐々に重い疲労感が広がっていく。車が自宅の前に停まると、律はすぐに降りて助手席のドアを開けてくれた。
「送ってくれてありがとう」
「本当に大丈夫?」
降りた私に、律が心配そうな声をかけてくる。その優しさが、今は少しだけ重く感じた。
「大丈夫よ。……ごめんね、少し一人になりたいの」
そう答える私の声がどこか頼りなく響いたのか、律は険しい顔で口を開いた。
「……バカなこと考えてない?」
思いもよらない言葉に、私は目を見開いた。
「どうしてそんなこと……」
「だって……今の姉さん、すごく辛そうだから」
律の真剣な視線が私を射抜く。その目を見て、私は心の底から彼が本当に心配してくれていると感じた。
「何かあったら俺を頼ってよ。姉さんまでいなくなったら、俺……」
律は言葉の途中で声を詰まらせ、私の服の裾をそっとつまんだ。その仕草が、まるで幼い頃の律のようだった。
「ありがとう、律。……そうね、何かあったら遠慮なく頼らせてもらうわ」
淡く笑ってそう言うと、律の顔がぱっと明るくなった。
まるで心の重荷が一気に降りたかのように笑う。
その笑顔に、救われた気がした。
律と別れ家の扉を閉めると、全身の力が抜けるようだった。
ソファに腰を下ろし、天井を見上げる。彰人さんのことが、頭を離れない。
離縁なんて、今は全然考えられない。でも……お父様の言っていることも、わかる気がする。
彰人さんがいなくなった今、私が宝堂家にいる意味はあるのか──。
考えるたびに、軽く眩暈がした。
だけど……どうしたらいいんだろう。
胸の奥で問い続ける自分の声が、ただ空回りしているように感じた。