義弟の甘い罠は壊れるほど狂おしく【長編版】
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翌日、宝堂の家には私と養父、そして律だけが食卓を囲んでいた。
静かな朝食の時間。本来なら彰人さんもここで朝食を摂るはずなのに。彰人さんがいないだけで家全体がどこか物足りなく感じる。
朝食後、私と律は応接室に呼び出された。正面に座る養父は、深刻そうな表情で私たちを見つめた。その顔つきに、ただならぬ話であることが直感的にわかった。
「菜月、彰人と離縁しなさい」
その一言に、私は息を呑んだ。
「えっ……?」
隣にいた律も目を見開き、言葉を失っている。
昨日、葬儀が終わったばかりだというのに、まさかそんなことを言われるとは思わなかった。
「それは……何故ですか? お父様」
ようやく声を絞り出したが、自分でも震えているのがわかった。
「実はな、おまえにこれだけの縁談が来ている」
養父がテーブルに置いたのは、見合い写真の束だった。
ぱっと見ただけでもその数は三十以上ある。
それを見た私は、怒りが込み上げて思わず立ち上がった。
「ひ……ひどいです、お父様! 彰人さんが亡くなったばかりだというのに!」
「そうだよ、父さん! いくらなんでも姉さんが可哀想だ!」
隣にいた律も、同じように立ち上がって叫んだ。
二人の抗議に、養父は慌てて手を振る。
「ち、違う! そうじゃない!」
そして深い溜息をつきながら説明を始めた。
「おまえたちの言う通り、彰人が亡くなったばかりだというのに、こんな話が出てくる。つまり、宝堂の地位が欲しいだけの輩だ。私はそんなところに菜月を嫁がせる気はない」
「お父様……」
養父の言葉を聞いた瞬間、私はホッと胸を撫で下ろしソファに座った。
律も同じだったのか、僅かに肩の力を抜いたのがわかった。
「これからもこういった話がどんどん出てくるだろう。しかし、菜月は元々宝堂家の人間ではない。菜月には自由に生きてほしいんだ。離縁して、旧姓を名乗れば宝堂の名だけを狙っている輩はいなくなるだろう。もちろん、旧姓を名乗ったからといって親子の縁まで切るつもりはない。これからも、菜月は私の娘だ」
「なんだ、そういうことか」
律は安心したのか、再びソファに腰を下ろした。
私も養父の優しさを嬉しく思う。
「でも、そんなにすぐに離縁しなくても……」
律がやんわりと反対の声を上げる。
まるで、私の気持ちを代弁してくれたように感じた。
「そうね……お父様、離縁については少し考えさせてください」
正直なところ、今は何も考えられない。
この場で何かを決断するには、あまりにも時間が足りなかった。
養父は黙って私の言葉を聞き、ゆっくりと頷いた。
「そうだな……。いや、おまえも辛いのに急かすようなことをして悪かった」
辛いのは私だけではない。
養父も、律も、きっと私以上にこの喪失を抱えているだろう。
私は二人に助けられてばかりだ。
しっかりしなければ、と拳を握りしめる。
心の中で気持ちを整え、私は立ち上がって深く頭を下げた。
「ありがとうございます、お父様。お心遣い、とても感謝しています。それから……葬儀のこと、本当にお世話になりました。……そろそろ帰りますね」
律も立ち上がり、車のキーを取り出した。
「姉さん、送っていくよ」
その申し出に、私は小さく頷いて応接室を出た。