義弟の甘い罠は壊れるほど狂おしく【長編版】
  *

 
「それにしても、なんで律くんが……」
 
 依頼人のところへ向かう車の中で、ハンドルを握ったまま、軽井沢さんが独り言のようにこぼした。
 助手席の私は、軽井沢さんの横顔を見ながら言葉を探す。
 そうだった、それを説明しなければ。
 でも……昨日のことを話すのは、正直憚られる。
 律の、あの目。張りついたような笑み。義弟(おとうと)としての顔しか知らなかった私に向けられたあの狂気にも似た感情を、軽井沢さんに話してもいいものかどうか。
 私自身、まだ整理できていないのに。
 黙っている私を、軽井沢さんは追及しなかった。代わりに、少し口調をやわらげる。

「でも、これで〝他人が書いた〟ってことは証明できたわけだ」
「そうですね……でも」
 
 声が細くなりながらも続ける。

「律は、書いただけでした」

 私の言葉に、軽井沢さんは少しだけ眉を上げる。
 
「イタズラ……ってこと?」

 イタズラ、で済む話ではないのかもしれない。けれど、説明するのにこれ以上の言葉が見つからなかった。
 
「……そんな、感じです」

 心のどこかでわかっている。
 いつか必ず、律の気持ちと向き合わなければならない日が来る。
 知らなかったふりでは、もう進めないところに私は立っているのだ。

「でも、これで日記の違和感は消えたんだ。良かったね、菜月ちゃん」
「いえ、それが、その」

 口ごもる私に、軽井沢さんがちらりと視線を寄越す。
 信号が赤になって止まり、エンジンの音だけが静かに響く。
 
「昨日、律とも話していたんですが、やはり事故じゃないのかも、って……」
「それはまた……どうして?」
「そもそもなんですが、非常階段にいたこと自体がおかしいんです。警察は遺留品も防犯カメラも問題なかったと言っていましたが……」

 一度、息を整える。言葉にするほど、不安は輪郭を持ちはじめる。
 
「私の目で、防犯カメラを見てみたいんです。軽井沢さん、なんとかできませんか?」
「さすがに、俺にその権限はないから、龍樹に相談するしかないな」
「お父様……」

 養父(ちち)は、彰人さんの死についてほとんど語ろうとしなかった。
 『事故だった』と、わずか一度だけ。それ以上を、拒むように。
 真実に触れることは、たぶん傷を広げることになる。
 けれど、もう引き返せない。私は知らなければならない。
 彰人さんが、どうして非常階段にいたのか。どうして、事故になったのか。
 信号が青になり、車は再び走り出した。
 
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