義弟の甘い罠は壊れるほど狂おしく【長編版】
 顔を上げると、軽井沢さんが停止ボタンを押していた。

「先生……?」
「菜月ちゃん、これ以上は……」

 ああ、そうか……ここからは、きっと彰人さんの最期──。
 おそらくその音声が残っている。
 軽井沢さんは、それを私に聞かせまいとして止めてくれたのだ。
 養父も、隣で首を振っている。
 
「でも、聞かないと……」
「気持ちはわかるが、犯人はわかったんだ。無理はしない方がいい」

 ……犯人。
 その言葉を聞くだけで、胸が締め付けられるようだった。
 律が彰人さんの死に関わっていないとわかった時は、本当にほっとした。事故だったのだと信じられるだけで、どれほど救われたか。
 けれど、真実に近づけば近づくほど、事故という言葉の輪郭はぼやけて、代わりに〝事件〟という影が形を持ち始めた。──もう、認めなければならない。

 彰人さんは殺された。
 
 転落が故意だったのか、計算された結果なのか、まだわからない。
 でも、あの場所に追い込まれたのが偶然ではないことは、もう否定できなかった。
「犯人がわかった」と言われても、すべてが腑に落ちるわけじゃない。
 むしろ、わからないことがまた増えていく。
 彰人さんは、何を脅されていたのだろう。どんな気持ちで非常口の扉を開けたのだろう。
 胸の奥にはまだ霞がかかったままだ。
 真実がわかったようで、わからない。
 ただ、彰人さんが追い詰められていたという事実だけが、残酷なほど明確だった。
 悔しさと、やり場のない思いが混ざって、視界がにじむ。気づけば、爪が食い込むほど拳を握りしめていた。
 
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