桜散る前に
第18話 試練の時
健一郎が三年の条件を出してから、半年が過ぎた。
商店街は順調に成長を続けていたが、翔太の建築設計事務所は厳しい状況に直面していた。商店街の仕事が一段落すると、新しい依頼がなかなか入らなくなっていた。
「今月も赤字ですね」
翔太は帳簿を見ながら、ため息をついた。小さな事務所を維持するだけでも精一杯で、将来への蓄えなど考えられない状況だった。
桜屋では、亜矢が心配そうに翔太の様子を見守っていた。
「翔太さん、最近元気がないみたい」
美奈子に相談すると、母は優しく微笑んだ。
「男の人は、プライドがあるからね。きっと一人で抱え込んでいるのよ」
「何か手伝えることはないでしょうか?」
「あなたができることは、信じて待つことよ」
美奈子の言葉は温かかったが、亜矢の不安は募る一方だった。
ある日の夕方、翔太が珍しく落ち込んだ様子で桜屋を訪れた。
「どうしたんですか?」
亜矢が心配そうに尋ねた。
「実は…東京の大手設計事務所から、スカウトの話が来ているんです」
翔太の言葉に、亜矢の心臓が跳ねた。
「スカウト?」
「はい。以前の会社の上司からの紹介で、条件も悪くありません」
翔太は苦しそうに続けた。
「年収は今の三倍以上。安定した生活が保証されます」
「それは…良い話ですね」
亜矢は複雑な気持ちで答えた。
「でも、東京に行ってしまうということですか?」
「そうなります」
翔太の表情は暗かった。
「このままでは、高橋さんとの約束を果たせません。三年で経済的安定を築くなど、到底無理です」
「でも…」
亜矢は言いかけて口をつぐんだ。確かに、翔太の現在の状況では、父の条件をクリアするのは困難だった。
その夜、健一郎は工房で一人作業をしていた。亜矢が相談に来ることを予想していたのだ。
「お父さん」
予想通り、亜矢が現れた。
「翔太さんのことですね」
健一郎は手を止めずに答えた。
「東京に行ってしまうかもしれません」
「そうか」
健一郎の反応は淡々としていた。
「お父さんは、それでもいいんですか?」
「わしが決めることではない」
健一郎はようやく振り返った。
「翔太自身が決めることだ」
「でも、お父さんの条件があるから…」
「条件は変えない」
健一郎の声は厳格だった。
「結婚は人生の大事だ。中途半端な覚悟では認められない」
亜矢は父の頑固さに悲しくなった。しかし、心の奥では、父の言うことも理解できた。
翌日、翔太は最終的な決断を迫られていた。
東京の設計事務所からの返事の期限が迫っていた。断れば、二度とこのような機会はないだろう。
悩みぬいた末、翔太は亜矢に会いに来た。
「決めました」
翔太の表情は決意に満ちていた。
「東京には行きません」
「え?」
亜矢は驚いた。
「どうしてですか?安定した収入が得られるのに」
「お金だけが人生じゃありません」
翔太は強く言った。
「僕はこの街を愛しています。商店街の皆さんと一緒に築いてきたものを、簡単に捨てることはできません」
「でも、それでは三年後の約束が…」
「何とかします」
翔太の決意は固かった。
「必ず道を見つけます」
その時、健一郎が工房から出てきた。
「翔太」
「はい」
「話があるから、ついて来い」
健一郎は翔太を商店街の中央広場に連れて行った。
「ここで何をするんですか?」
「お前に提案がある」
健一郎は翔太を見据えた。
「商店街の総合プロデューサーになれ」
「総合プロデューサー?」
「そうだ。各店舗の改装計画、新しい体験プログラムの開発、観光客誘致の戦略立案。すべてをお前に任せたい」
翔太は驚いた。
「でも、そんな大きな責任を…」
「お前にしかできない仕事だ」
健一郎の声に確信があった。
「商店街の未来は、お前の手にかかっている」
「報酬は?」
「各店舗から出資して、年俸八百万円は保証する」
翔太は言葉を失った。それは東京の条件には及ばないが、金沢で生活するには十分な額だった。
「どうしてそこまで…」
「お前の真心を見たからだ」
健一郎は珍しく表情を和らげた。
「東京の好条件を断ってまで、この街に残ろうとするお前の覚悟を」
翔太の目に涙が浮かんだ。
「ありがとうございます」
「ただし」健一郎は再び厳格な表情になった。
「三年の約束は変わらない。その間に、この街をさらに発展させ、お前自身も成長しろ」
「はい」
翔太は力強く答えた。
「必ず期待に応えます」
その夜、桜屋では久しぶりに明るい雰囲気が戻っていた。
「良かったですね」
美奈子が嬉しそうに言った。
「これで翔太さんも安心して仕事に取り組めます」
「でも、プレッシャーも大きいでしょうね」
亜矢は心配そうだった。
「商店街全体の責任を背負うなんて」
「大丈夫だ」
健一郎が断言した。
「あの男なら、必ずやり遂げる」
健一郎の翔太への信頼は、確固たるものになっていた。
翌日から、翔太は総合プロデューサーとしての新しい仕事を始めた。
各店舗を回り、さらなる改善案を検討する。新しい体験プログラムを企画し、観光ルートを再構築する。忙しい毎日だったが、翔太の表情は生き生きしていた。
「やりがいのある仕事ですね」
翔太は亜矢に報告した。
「みなさんが協力的で、新しいアイデアもどんどん生まれています」
「頑張ってくださいね」
亜矢は嬉しそうに答えた。
「でも、無理はしないでください」
「大丈夫です」
翔太は微笑んだ。
「亜矢さんがいてくれれば、どんな困難も乗り越えられます」
二人の愛は、試練を通じてより深いものになっていた。
三年後の結婚という目標に向かって、今度は確実な足取りで歩み始めた。
商店街の未来も、二人の恋の行方も、明るい光に満ちていた。
夕日が商店街を金色に染める中、翔太と亜矢は手を繋いで歩いていた。
「あと二年半ですね」
亜矢がつぶやいた。
「はい。きっとあっという間です」
翔太は自信に満ちて答えた。
「その時には、立派な商店街と、立派な男性になっていることを約束します」
亜矢は翔太の横顔を見つめた。
この人となら、どんな未来でも乗り越えていける。
そう確信していた。
商店街は順調に成長を続けていたが、翔太の建築設計事務所は厳しい状況に直面していた。商店街の仕事が一段落すると、新しい依頼がなかなか入らなくなっていた。
「今月も赤字ですね」
翔太は帳簿を見ながら、ため息をついた。小さな事務所を維持するだけでも精一杯で、将来への蓄えなど考えられない状況だった。
桜屋では、亜矢が心配そうに翔太の様子を見守っていた。
「翔太さん、最近元気がないみたい」
美奈子に相談すると、母は優しく微笑んだ。
「男の人は、プライドがあるからね。きっと一人で抱え込んでいるのよ」
「何か手伝えることはないでしょうか?」
「あなたができることは、信じて待つことよ」
美奈子の言葉は温かかったが、亜矢の不安は募る一方だった。
ある日の夕方、翔太が珍しく落ち込んだ様子で桜屋を訪れた。
「どうしたんですか?」
亜矢が心配そうに尋ねた。
「実は…東京の大手設計事務所から、スカウトの話が来ているんです」
翔太の言葉に、亜矢の心臓が跳ねた。
「スカウト?」
「はい。以前の会社の上司からの紹介で、条件も悪くありません」
翔太は苦しそうに続けた。
「年収は今の三倍以上。安定した生活が保証されます」
「それは…良い話ですね」
亜矢は複雑な気持ちで答えた。
「でも、東京に行ってしまうということですか?」
「そうなります」
翔太の表情は暗かった。
「このままでは、高橋さんとの約束を果たせません。三年で経済的安定を築くなど、到底無理です」
「でも…」
亜矢は言いかけて口をつぐんだ。確かに、翔太の現在の状況では、父の条件をクリアするのは困難だった。
その夜、健一郎は工房で一人作業をしていた。亜矢が相談に来ることを予想していたのだ。
「お父さん」
予想通り、亜矢が現れた。
「翔太さんのことですね」
健一郎は手を止めずに答えた。
「東京に行ってしまうかもしれません」
「そうか」
健一郎の反応は淡々としていた。
「お父さんは、それでもいいんですか?」
「わしが決めることではない」
健一郎はようやく振り返った。
「翔太自身が決めることだ」
「でも、お父さんの条件があるから…」
「条件は変えない」
健一郎の声は厳格だった。
「結婚は人生の大事だ。中途半端な覚悟では認められない」
亜矢は父の頑固さに悲しくなった。しかし、心の奥では、父の言うことも理解できた。
翌日、翔太は最終的な決断を迫られていた。
東京の設計事務所からの返事の期限が迫っていた。断れば、二度とこのような機会はないだろう。
悩みぬいた末、翔太は亜矢に会いに来た。
「決めました」
翔太の表情は決意に満ちていた。
「東京には行きません」
「え?」
亜矢は驚いた。
「どうしてですか?安定した収入が得られるのに」
「お金だけが人生じゃありません」
翔太は強く言った。
「僕はこの街を愛しています。商店街の皆さんと一緒に築いてきたものを、簡単に捨てることはできません」
「でも、それでは三年後の約束が…」
「何とかします」
翔太の決意は固かった。
「必ず道を見つけます」
その時、健一郎が工房から出てきた。
「翔太」
「はい」
「話があるから、ついて来い」
健一郎は翔太を商店街の中央広場に連れて行った。
「ここで何をするんですか?」
「お前に提案がある」
健一郎は翔太を見据えた。
「商店街の総合プロデューサーになれ」
「総合プロデューサー?」
「そうだ。各店舗の改装計画、新しい体験プログラムの開発、観光客誘致の戦略立案。すべてをお前に任せたい」
翔太は驚いた。
「でも、そんな大きな責任を…」
「お前にしかできない仕事だ」
健一郎の声に確信があった。
「商店街の未来は、お前の手にかかっている」
「報酬は?」
「各店舗から出資して、年俸八百万円は保証する」
翔太は言葉を失った。それは東京の条件には及ばないが、金沢で生活するには十分な額だった。
「どうしてそこまで…」
「お前の真心を見たからだ」
健一郎は珍しく表情を和らげた。
「東京の好条件を断ってまで、この街に残ろうとするお前の覚悟を」
翔太の目に涙が浮かんだ。
「ありがとうございます」
「ただし」健一郎は再び厳格な表情になった。
「三年の約束は変わらない。その間に、この街をさらに発展させ、お前自身も成長しろ」
「はい」
翔太は力強く答えた。
「必ず期待に応えます」
その夜、桜屋では久しぶりに明るい雰囲気が戻っていた。
「良かったですね」
美奈子が嬉しそうに言った。
「これで翔太さんも安心して仕事に取り組めます」
「でも、プレッシャーも大きいでしょうね」
亜矢は心配そうだった。
「商店街全体の責任を背負うなんて」
「大丈夫だ」
健一郎が断言した。
「あの男なら、必ずやり遂げる」
健一郎の翔太への信頼は、確固たるものになっていた。
翌日から、翔太は総合プロデューサーとしての新しい仕事を始めた。
各店舗を回り、さらなる改善案を検討する。新しい体験プログラムを企画し、観光ルートを再構築する。忙しい毎日だったが、翔太の表情は生き生きしていた。
「やりがいのある仕事ですね」
翔太は亜矢に報告した。
「みなさんが協力的で、新しいアイデアもどんどん生まれています」
「頑張ってくださいね」
亜矢は嬉しそうに答えた。
「でも、無理はしないでください」
「大丈夫です」
翔太は微笑んだ。
「亜矢さんがいてくれれば、どんな困難も乗り越えられます」
二人の愛は、試練を通じてより深いものになっていた。
三年後の結婚という目標に向かって、今度は確実な足取りで歩み始めた。
商店街の未来も、二人の恋の行方も、明るい光に満ちていた。
夕日が商店街を金色に染める中、翔太と亜矢は手を繋いで歩いていた。
「あと二年半ですね」
亜矢がつぶやいた。
「はい。きっとあっという間です」
翔太は自信に満ちて答えた。
「その時には、立派な商店街と、立派な男性になっていることを約束します」
亜矢は翔太の横顔を見つめた。
この人となら、どんな未来でも乗り越えていける。
そう確信していた。