桜散る前に

第23話 男の決意

美奈子の葬儀から一か月が過ぎた。

桜屋は以前の活気を失い、健一郎は妻を亡くした悲しみから立ち直れずにいた。体験工房での指導も機械的で、参加者たちも健一郎の変化を敏感に感じ取っていた。

「お父さん、少し休まれてはいかがですか?」

亜矢が心配そうに声をかけても、健一郎は首を振るばかりだった。

「仕事をしていないと、美奈子のことばかり考えてしまう」

健一郎の声には以前の力強さがなかった。

翔太も深い責任感に苛まれていた。美奈子の最期の言葉が、重く心にのしかかっていた。

『翔太さん、亜矢を…この家族を…よろしくお願いします』

しかし、現実は厳しかった。健一郎の落ち込みは深く、商店街全体にも暗い影を落としていた。翔太の新しい仕事は順調だったが、それだけでは家族を支えきれないと感じていた。

ある夜、翔太は一人で事務所にいた。机の上には、以前断った東京の大手ゼネコンからの名刺があった。

「もしかしたら、まだ間に合うかもしれない」

翔太は思い切って電話をかけた。

「お忙しい中、申し訳ありません。西村です」

「西村さん!お久しぶりです」

相手は意外にも歓迎的だった。

「実は、以前のお話…まだ有効でしょうか?」

「もちろんです。むしろ、あなたの最近の活躍を見ていて、ぜひお迎えしたいと思っていました」

翔太の心臓が跳ねた。

「ただし、今回は条件がさらに良くなっています」

相手が説明した条件は、以前を上回るものだった。年俸三千万円、住宅手当、家族の生活費全額支給。

「どうでしょう?今度は即決していただけませんか?」

翔太は迷った。美奈子の最期の言葉を思い出す。しかし、このままでは本当に家族を守ることができるのだろうか。

「少し考えさせていただけますか?」

「分かりました。ただし、今度は一週間以内にお返事をください」

電話を切った後、翔太は長い間考えた。

翌日、翔太は亜矢に相談した。

「東京の件、復活したんですか?」

亜矢は複雑な表情を見せた。

「はい。でも、今度は違います」

翔太は真剣な表情で続けた。

「僕は…僕はまだ半人前なんです。お母様を救えなかった。お父様を支えることもできない」

「そんなことありません」

「いえ、現実を見てください」

翔太は手を振った。

「健一郎さんは立ち直れずにいる。商店街も活気を失いつつある。僕の力では限界があります」

亜矢は黙って聞いていた。

「だから、東京で力をつけてきたいんです」

翔太の声に決意が込もっていた。

「大きなプロジェクトを手がけ、本当の実力を身につけて戻ってきたい」

「それは…どのくらいの期間でしょうか?」

「約束の期日まで、あと一年半です」

翔太は亜矢を見つめた。

「その時までに、必ず立派な男になって帰ってきます」

亜矢の目に涙が浮かんだ。

「私と離ればなれになってでも?」

「辛いです」

翔太は正直に答えた。

「でも、今の僕では亜矢さんも、お父様も守れません」

「翔太さん…」

「信じて待っていてください」

翔太は亜矢の手を取った。

「必ず、約束を果たします」

その夜、二人は健一郎にこのことを報告した。

「東京に行くのか?」

健一郎は驚いた。

「はい。申し訳ありません」

翔太は深く頭を下げた。

「僕の力不足で、お父様を十分に支えることができません」

「翔太…」

「東京で実力をつけて、必ず戻ってきます」

翔太の決意を聞いて、健一郎は長い間考え込んだ。

「そうか…それがお前の決断なら、止めはしない」

健一郎の言葉は意外だった。

「でも、約束を忘れるな」

「はい」

「一年半後、立派な男になって帰ってこい」

健一郎は厳しく言った。

「そうでなければ、亜矢はやらん」

翔太は力強く頷いた。

「必ずお約束します」

出発の日が近づくにつれ、商店街の人々も翔太の決断を知ることになった。

「寂しくなるね」

山田のおばさんが目を潤ませた。

「でも、翔太さんの判断なら間違いないわ」

田中のおじさんも理解を示した。

「男には、やらなければならない時がある」

商店街の仲間たちは、翔太を温かく送り出すことにした。

出発前夜、翔太は亜矢と兼六園を歩いた。

「ここで初めて本当の気持ちを伝えましたね」

翔太が懐かしそうに言った。

「そうでしたね」

亜矢も微笑んだが、その目には不安があった。

「一年半は長いですよ」

「僕も同じ気持ちです」

翔太は立ち止まって亜矢を見つめた。

「でも、これは僕たちの未来のためです」

「分かっています」

亜矢は涙を堪えながら答えた。

「でも、やっぱり寂しいです」

翔太は亜矢を抱きしめた。

「必ず帰ってきます。そして、立派な男になって、改めてプロポーズします」

「待っています」

亜矢は翔太の胸で泣いた。

「どんなに長くても待っています」

翌朝、翔太は東京に向かう新幹線に乗った。

ホームには健一郎、亜矢、そして商店街の人々が見送りに来ていた。

「頑張ってこい」

健一郎が短く言った。

「はい」

翔太は窓越しに深く頭を下げた。

新幹線が動き出すと、亜矢が手を振った。翔太も手を振り返した。

故郷の景色が遠ざかっていく。心は重かったが、決意は固い。

「必ず、立派な男になって帰る」

翔太は心に誓った。

東京駅に着くと、ゼネコンの担当者が迎えに来ていた。

「西村さん、お疲れさまでした」

「こちらこそ、よろしくお願いします」

翔太は新しい人生のスタートを切った。

一方、金沢では亜矢が一人で桜屋を支えることになった。

「頑張らないと」

亜矢は自分に言い聞かせた。

翔太の分まで、父を支え、店を守らなければならない。

一年半後の再会を信じて、亜矢も新しい挑戦を始めた。

二人の愛は、距離を超えて続いている。

そして、約束の日まで、それぞれの道を歩んでいく。

翔太は東京で、亜矢は金沢で、互いを想いながら成長していく。

愛する人のために、自分自身のために、そして未来のために。

長い別れの時間が始まった。
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