アオハルAssortment

色あせ、消えゆく、けれど緩やかに優しさは留まる。

 奥に行けば行くほど埃臭く、奥に行けば行くほど光が届かず薄暗い。敬一郎は、その様子をゲームの洞窟ダンジョンのようだと思っていた。
 今日も数人の男たちが奥へ消えていく。偶に紙切れを差し出して、「この本はどこにありますか」と聞いてくる。
 敬一郎が祖父のグランドゴルフや町内会の旅行の時に店番を頼まれる、古書『現屋(うつつや)』は、田舎の駅通りにある商店街の外れにある。現屋の目の前はバス停になっていて、朝は学生が並んでいるし、帰りは途切れることなくポツポツと学生が下りていく。
 敬一郎は駅中の全国チェーンの書店に就職が決まっている大学四年生。両親が共働きで祖父にほぼ育てられたので、祖父には逆らえないし尊敬している。
 なので店番は面倒だが、とくに断ることもない。ただレジの中のソファで気ままに携帯ゲームをしている。
「あのう」
「んん?」
 レジを覗く顔は、少し不安そうで敬一郎は立ち上がる。ここは洞窟ダンジョンの入り口だ。鈴の鳴るような可愛らしい声が聞こえてくるはずがない。
「あのう、本の修繕をお願いできますか?」
 けれど、暖かそうな真っ赤なマフラーに、きっちり結ばれた三つ編み、牛乳瓶の底のような眼鏡、そして清潔そうなワンピース型の制服。この近所では珍しい、駅三つ分先にある有名私立女学院の高校生が立っていた。

「あー……俺、バイトなんですよ」
 表の入り口には、『本の修繕承ります』と達筆に書いてはいるが、敬一郎にはそんな術はできない。
「祖父ができるんですが、町内会の旅行で一週間留守ですね。お預かりしましょうか」
「お願いいたします。すぐじゃなくていいんです」
 女の子は、カバンからボロボロで色あせた絵本を取り出すとレジに置いた。中身も破れているのだろう、本の隅から中身の文字が見えている。セロハンテープで修繕した部分は劣化し黄色くベトベト黒ずんでいる。
「お名前と電話番号を窺っていいですか。修繕したら電話しますので」
「電話は困ります。家族には内緒なんで。あの、驚かせたいんです。一週間後にまた来ます」
「じゃあお名前だけでも」
「わかりました」
 レジのカウンターにマフラーが乗る。耳に髪を掻けながら文字を書く少女の仕草が、艶っぽくつい見とれてしまった。
『木下 雅』
 名前は体を表すという言葉が、ぴったりだ。今はあか抜けない牛乳瓶みたいな眼鏡だが、この女の子はきっと大人になったら開花するだろう。
「雅さんですね。素敵な名前だ」
「え、ええ? あの、ありがとうございます」
 耳まで真っ赤になる奥ゆかしい姿に、心が癒されるのを感じた。
「この作者、絵本も描くんですね。絵まで描けるとは天は二物与えてんじゃんみたいな」
「この作者、知ってるんですか!」
「知ってるって言うか、有名人ですよ。女性作家の第一人者です。彼女の生きた時代、女性がポルノを書くのは珍しいというか。女性ならではの繊細で胸を抉る心理描写らしいですね」
 敬一郎はゲーム三昧でほぼ本を読むことはなかったが、店番をしている時に持ち込まれたり、この名前の著作を探している人に出会っている。
「ぽ。ポルノ作家……」
「ああ、でも昔の作品だから直接的な表現はないんじゃないかな。読む?」
 探してこようか、と問うと雅は戸惑った様子で手を動かすが、強く握る。
「そ、……祖母なんです」
「この作家が?」
 雅は頷く。
「祖母が黙っていたということは身内に知られたくなかったのかなって。だったら私は祖母にまで嫌われたくないし……その、知らないふりをした方がいいのかなって」
「よくわかんね。ベットの下に隠してあるエロ本じゃない。その人が亡くなっても生き続けてる、美しい作品なのに。読んだことねえけど」
「うう。ベットの下の下品なものに例えないでください」
 プシューっとやかんが沸騰したように赤くなる少女に、敬一郎は目が離せなかった。

「何冊か見繕ってくるから、ちょっと待ってて」
「あ、あの」
 洞窟ダンジョンに素手で行く馬鹿はいない。常連は、勝手に店の入り口に置かれた脚立を持っていくし、秘蔵の書物だと宝箱を発見した勇者の手は手袋をしていたりする。
 敬一郎も埃叩きと脚立を持って奥へと行く。人気作家だけあって、脚立に乗らずとも取れたのは良かった。見繕うとは言ったものの、読んだことがない敬一郎は、近くの常連を呼び止めた。
「この作家ってどれが面白い?」
「あら、いやだねえ、お爺さんがいない時に、エロ本かい」
 去年定年退職してからほぼ日課でくる、隣の魚屋の爺さんがからかうように笑うが、敬一郎は相手にしない。
「この佐々木群青さんって作者の本はね、全部繋がってるんだよ。主人公に意地悪したり恋に破れた相手が次に主人公になるんだ。どれからじゃなく、最初から読むのがいいよ」
 爺さんは順番通りに敬一郎の手に本を乗せていく。
「ああ、最終巻だけないねえ。一番発行数が少ないって言ってたからねえ」
「……ありがとう」
 雅の元へ戻ると、落ち着かないように店の入り口でぐるぐる回っていた。
「これ、シリーズらしいんだけど」
「そ、祖母の意思を尊重したいから家には持って帰れません。それに……家では読めません」
 悲しそうに頬を押さえる雅に、敬一郎はレジに本を置きながら手招きする。
「ここで読んでいいよ」

「えええ」
「爺さんが帰ってくる一週間で読み終わったらいいじゃん。好きにしていいよ、足が悪い爺さんのために俺が買ったソファだし」
「……い、いいんですか」
 もっと遠慮するかと思ったが、急に雅はソファを見て無表情になった。憑き物が落ちたような、と例えるのがあっているような、急に素を見せてきた。
「いいよ。俺、充電しながらゲームしたいから奥の畳の部屋で寝転びたいし」
「ありがとうございます。現屋さん」
 花が咲き誇るような笑顔。敬一郎は、名前で呼んでよ、と言いながら気づいたら雅の頭を撫でていた。
 それから雅は、赤いマフラーを花弁のように振り回しながら、現屋にやってきては本を読んで帰っていく。田舎のバスの最終は十九時だ。十九時になると名残惜しそうに本を閉じる。
 家はこの寂れた駅から五つ先。十九時のバスで帰ると一時間半はかかるらしい。家には、国際便の操縦士をしている留守がちの父親と再婚してできた新しい母親、そして生まれたばかりの弟。弟のお世話を手伝いたいけど断られるので、なるべく邪魔にならないように家では息をひそめているけれど、ひそめてもいいほどに小さな弟は可愛いらしい。
 雅は家族の話をするときは、今にも消えそうな頼りない蝋燭の灯火のように暗くなる。母親と上手くいっていないが懸命に距離を縮めようとしている様子が、敬一郎の胸を打った。
「あの絵本、弟にあげようと思うんです」
「へえ」
「祖母が私のために描いてくれた世界に一冊だけの本なんです。だから弟にも読んであげたいんです」
「それは絶対に綺麗に修繕してやらないとな」
「はい」
 花のように笑う。世界中探してもこれほど美しい花もしらない。手折られないように、健やかに育ちますように。決して枯れないように。一週間過ごすうちに、敬一郎は雅のアンバランスな環境の上で必死に咲こうとしている健気さに心を奪われていた。
 そして一週間が経ち、家の前に町内会のバスが止まる。降りてきたのはアロハシャツでニット帽をかぶったサングラス姿の、現屋主人、館丸 喜一郎。温泉旅行に行った帰りとは思えないような奇妙な格好をしている。
「へーい。わしの可愛い孫―。おみやげのよくわからない木刀と駅でも売っていた饅頭だぞ」
「もう少しマシなものを買って来い」
 その饅頭は敬一郎の好物だし、よくわからない木刀は、家族旅行で両親に買ってもらえなかったと以前話していた木刀の特徴によく似ている。何年前の話だと思っているのか。爺さんにとって孫は何歳になっても孫のようだ。
「ああ、そこの本の修繕の依頼が来てんだ。急いでやってくれ。一週間待ってる」
「ほー。佐々木群青先生の絵本かあ。あーあ。素人さんがセロハンテープなんかで補強しやがって。ほいほい、腕が鳴るねえ」
 テープを剥がすのが一番大変らしく、糊やアイロン、ピンセットなど補修用道具が次々に並べられる。絵本はバラバラになりページごとに補修されていく。
「下手くそな修繕の仕方だ」
「素人なんだから言ってやるなよ」
「子供の時に読みすぎたんだろうな。自分で何度も修繕して……世界で一冊。この本は幸せ者だなあ」
 千年経てば付喪神になれるのは間違いないな、と喜一郎は嬉しそうに修繕していた。
 大切に読まれた本を修繕するのは楽しいらしい。なので、修繕は無料だ。
 一年間に何万冊とも発売される本の中で、自分のたった一冊を見つける。それが子供の時で、大人になってもその本を大切にしている場面を見ると、嬉しくなるらしい。
「お気に入りの本を見つけるのは、運命の恋に似てる」
「そういって婆ちゃんを口説いたんだっけ?」
「ああ。ばあさんは、本に例えるなと怒っていたなあ」
「女心を分かってねえ爺さんだ」
「お前に言われたくねえな」
 口も態度も悪い癖に、修繕し終わった絵本は、丁寧にテープを剥がされ新しい紙で補強され、ヒモでしっかり閉じられ、再び開いても崩れることはなかった。
 すぐに学校の帰りにやってきた少女にその絵本を渡すと、サングラス姿の浮かれた爺さんに抱き着いていた。
「嬉しいです。いつも、本を開くのが楽しかったんです! でもバラバラに破れてから、恐る恐る開かなきゃいけなくて、でもすごい。とてもきれいになってる!」
「劣化した部分だけは交換してやれねえけどな。弟くんにプレゼントなんだって?」
「はい! とても楽しみです。私が好きなものも、家族が好きになってくれたら本当に嬉しいです」
 何度も何度も頭を下げながら、雅はその日、本も読まずに帰っていった。全部読み終わっていたが、また一冊目から読み直し始めたばかりだっったのに、だ。きっとすぐ弟に届けたかったんだろう。優しい雅の気持ちが長年しみ込んだ絵本だ。弟にその気持ちが受け継がれるように。バスに乗り込む雅に手を振りながら、敬一郎も言い難い焦燥感に胸を掴まれていた。
 次の日は大雨だった。バケツをひっくり返したような大雨の中、湿気で本が駄目にならないようにと喜一郎が曲がった腰で世話しなく店中を歩き回っていた。
「爺さん、俺がするから座ってろよ」
「おお、悪いな。じゃあ代わりにわしがお前のゲームをするか」
「やめてくれ。連勝中なんだ」
 携帯の奪い合いをしていると、バスが店の前に止まった。そしてずぶ濡れの雅が店の中に駆け込んでくる。
「おじいさん、敬一郎さん」
「どうした?」
 雅はその場に座り込むと、濡れた雅がコンクリートの床に水たまりを作っていく。
 カバンからビニール袋に入れた本を取り出すと、その場で泣き崩れた。
 昨日、修繕した本は半分に破られ、真っ二つに裂けていた。
 壊れたからではない。これは大人が破いたのだとわかる。昨日、喜一郎が閉じるときに中を樹脂でしっかり固定したのだから間違いない。
「雅さん、大丈夫ですか?」
「これぐらいならすぐ修繕できるぞ。ほれほれ」
 喜一郎が修繕道具を取りに奥へと行くと、雅は震える体を自分で抱きしめて、うつむいていた。
「……汚いからいらないって言われちゃった」
「汚い、ねえ」
「弟にこんなの触らせないでって、破かれちゃった」
「……」
「もう」
 ――もうあの家に帰りたくない。帰りたくない。消えてしまいたい。
 声にもならない声が、かすかすと空気と共に消えていく。
 何度も歩み寄ろうとした少女と、大切にしていた気持ち。受け継がれていく色あせない思いを、破いたのは誰だろうか。
「いいよ。帰らなくていいよ」
「え」
「俺と結婚しちゃいません? 雅さん」
「ええええ」
「俺、あと数か月で就職だし、まあ結婚式とかは先になるけど、結婚して一緒に住もう。家を出よう」
「……敬一郎さん、すごい」
 ポロポロと泣きながら、素で驚いている雅に敬一郎は微笑んだ。
「すごく、幸せな未来が見えました」
 ぐしゃぐしゃに泣き崩れる雅を抱きしめながら、本気で結婚を考えていた敬一郎。
 そして修繕道具を持ってくると思った喜一郎だが、手には木刀を握っていた。
「おい、爺さん、その手に持ってるものはなんだ」
「ああ、これか。これはな、心が汚い奴を修繕するのに必要なものだ」
「なるほど、よし。ゴーッ」
「go? だ、駄目です。お爺さん、駄目ですよ」
 涙を振り落としながら、必死で雅も止めるので、喜一郎は渋々、木刀を下したのだった。


真っ二つに裂けた絵本は、片方を雅の父親に渡し、雅は本当に敬一郎と結婚した。
 それは二人が会ってから二年後の、雅の学校の卒業を待ってからだった。
 最後まで義母親とは距離は縮まらなかったが、雅はもう傷つくだけではない。そばにいる大切な人にだけ心を通わせようと、――諦めた。
 敬一郎は駅中の本屋に就職し、雅は腰の悪い喜一郎を助けるために現屋で働きだした。
 二人は商店街に近いアパートを借りて、裕福とは言い難いが幸せな結婚生活を過ごした。
 雅の優しい思いは、気持ちは、毎日溢れる。彼女の優しさは敬一郎にはしっかりと伝わった。そして受け止めてもらえた雅は更に幸せで、敬一郎に好意を寄せる。
 二人は数年、幸せな結婚生活を送っていた。
 そして五年の月日が経ったある日曜日だった。
「すいません、ここにみやびさんはいますか」
 レジに顔さえ出ないような、小学校低学年ぐらいの男の子が現屋に現れた。
 その日、喜一郎は町内会の旅行で、雅と敬一郎は奥の畳の部屋で一緒に炬燵に入って、イチャイチャしていた時だった。
「あ、はい。私、ですが……」
 敬一郎が抱き着くのを振り払い、真っ赤になりながらもレジに出る。
 敬一郎も体を冷やさなおいように自分のコートを肩にかけたときだった。
 雅の顔が強張った。そしてすぐに敬一郎の方を向く。
 敬一郎がレジの向こうを覗き込むと、駅三つ向こうの有名私立小学校の名札をつけた可愛らしい男の子が立っていた。
「うちの奥さんになにか?」
 男の子は、ボロボロになった絵本をカバンから出すと雅に向けた。
「この絵本の続きを、おねえちゃんがもっているとききました」
「翔……」
「ぼくのおねえちゃんですよね。パパが熱を出しておねえちゃんの名前を出してます。熱がさがったら会ってあげてくれませんか」
「……うん。うん」
 雅はレジから飛び出すと、男の子の目線まで屈み、泣きながら何度も頷いた。
 敬一郎は奥から、半分になった絵本を取り出すと、男の子に渡す。
「悪いけどあげることはできないから、ここで読んでいってくれるか」
「はい。でもこの本、ぼくにおねえちゃんがくれたんじゃないんですか」
 経緯を知らない男の子は、きっとその部分しか聞かされていないのだろう。雅は涙を拭きながら、恐る恐る弟を抱きしめた。
「そうだよ。でもね、お姉ちゃんのお腹の赤ちゃんにも読ませてあげたいから、だからあげることはできないの」
 ごめんね、と雅が言うと、男の子はズボンのポケットからハンカチを取り出し差し出しながら、雅に言う。
「ぼくが読んであげてもいい?」
 色あせ、消えゆく、けれど緩やかに優しさは留まる。
 雅の優しさも、気持ちも、色あせることなくその本の中に留まっていた。大切にされた本に、優しい人は集まる。
 雅は号泣しながら何度も何度も頷き、敬一郎は弟の頭をガシガシと撫でたのだった。
       終
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