きみと、まるはだかの恋
「って、時間やばい。準備しなくちゃ」
感傷にひたりながら目にした時計を意識して、ふと我に返る。
時刻は七時半を回っている。最初の仕事であるコスメブランドの『セキレイ』さんとの打ち合わせは九時からだが、朝食を食べてメイクして着ていく服を選んで――としているとなかなかに時間がかかる。『セキレイ』さんのオフィスは渋谷だが、私の住む中目黒からは徒歩で向かうつもりである。電車に乗れば十分程度で着くが、運動のため。また、電車に乗ると少なからず私を知っているファンのひとに出会う可能性があり、そうなると笑顔で対応しなくちゃいけないから、約束の時間に間に合わなくなるのだ。
運動も美容には大切だからね。
そう自分に言い聞かせて、八時十五分に家を出た。渋谷まで約四十分。九月上旬の今日、皮肉なほどに晴れている。この時間にも関わらず気温は三十度を超えているし、ぎらぎらとした太陽がアスファルトの地面に反射して、照り返しに顔が灼けつくような感覚に陥る。サングラスはかけているものの、頬が日焼けしてしまわないか、常に気を張りながら歩いた。
世界は今日、私が恋人からふられたことなど知らない。
すれ違うひとたちの中にも、同じような境遇のひとがいるはずなのに。
みんな、なんでもないふりをして仕事や学校に向かっている。
変なの、とつぶやいたら、頭が急速に仕事モードに切り替わっていくのを感じた。
「よーし」
ひとり、歩きながら気合を入れる。
今日も完璧な自分、完璧なインフルエンサー・ハナとして生きてやる。
心の中で喝を入れて、ハイヒールの靴を踏み鳴らしながら、東京の真ん中へと向かっていくのだった。