氷の御曹司と忘れられた誓い
番外編 氷室の覚え書き
社長室のドアをノックし、静かに入る。
机の向こうで社長は書類に目を通し、隣の応接ソファには花蓮様が座っていた。
控えめに差し出された紅茶を、社長はいつになく自然な笑みで受け取る。
――なるほど。
社長が、誰に微笑むか。
その答えは、いつも同じだった。
外では“氷の秘書”などと呼ばれる私だが、長年仕えていると、彼の細かな変化に気づいてしまう。
眉間の皺が和らぐとき。
口調が少し柔らかくなるとき。
それは決まって、花蓮様が側にいるときだった。
(奥様には、お気づきでしょうか)
机に置かれた資料を整えながら、心の中で苦笑する。
社長の不器用さを補うのが私の務めだ。
けれど、彼を変えていけるのは私ではない。
隣に座り、視線を受け止めている彼女だけ。
控室へ戻る途中、窓から差し込む春の光が眩しく感じられた。
「……ようやく、安心できますね」
誰に聞かせるでもない声が、静かに室内に溶けていった。