氷の御曹司と忘れられた誓い
第四章 初めての衝突
冬の夜は、屋敷を静かに閉じ込めていた。
外の庭は薄氷を張ったように白く、灯りがそこに落ちて淡く揺れる。
花蓮はリビングで読みかけの本を閉じた。隼人はまだ帰っていない。
最近はこの時間が当たり前になっていた。
(また氷室さんと一緒かしら)
その考えを振り払うように立ち上がり、温かいお茶を淹れ直そうとキッチンへ向かう。
ふと、廊下の奥の扉がわずかに開いているのに気づいた。隼人の書斎だ。
いつもは鍵がかかっている場所。
軽くノックをしてみたが、返事はない。
(……留守だから)
ほんの少しだけ、足が中へと踏み込んだ。
書斎は黒と深い木目で統一され、空気は静かに冷えていた。
机の上には整理された書類の束と、革のペンケース。
その隣、革トレイの上に一枚のメモ用紙があった。
淡いクリーム色の紙に、柔らかい丸みを帯びた文字。
――《明日の件、楽しみにしています。M》
花蓮の指先が震えた。
短い一文。差出人の名前はイニシャルだけ。
(……M。氷室真希の、M?)
そう思った瞬間、胸が熱くなり、視界がにじむ。
机の引き出しには他にもいくつかの封筒があり、見慣れない筆跡が並んでいた。
すべてに手を伸ばしたい衝動を必死に抑える。
そのとき、背後で低い声が落ちた。
「……何をしている」
振り向くと、扉の向こうに隼人が立っていた。
黒いコートの襟に夜気をまとい、目は冷たく光っている。
「勝手に入ったのか」
「扉が開いていたから……」
「だからと言って、許可なく入っていい理由にはならない」
低く押し殺した声。花蓮は一歩も引かずに視線を合わせた。
「このメモ……どういう意味ですか」
花蓮は紙を持ち上げる。手がわずかに震えていた。
隼人の瞳が一瞬だけ鋭く細められる。
「仕事だ」
「“楽しみにしています”が、ですか?」
「取引先との打ち合わせだ」
「なら、どうして差出人の名前がイニシャルだけなんです」
「関係ない」
短く切り捨てられ、胸の奥の何かが音を立てて割れた。
「……私には関係なくても、周りはそう思わないでしょう。もう噂になっているんです」
「噂に振り回されるのか」
「振り回されるつもりはありません。でも、あなたは何も説明しない」
「説明が必要だと思っているのか」
「ええ。だって、私は――あなたの妻ですから」
その一言に、隼人の眉間が深く寄る。
「妻なら俺を信じろ」
「信じたい。でも、あなたは私を信用していない」
「……」
「距離を置いて、何も話さない。氷室さんとばかり一緒にいて、私には背中しか見せない」
言い終わった瞬間、室内の空気がさらに冷えた。
隼人は机の角に片手を置き、低く言った。
「お前は俺を何だと思っている」
「わかりません。だから聞いているのに」
二人の視線がぶつかる。
その奥に、互いの苛立ちと、言葉にできない感情が渦巻いていた。
隼人は深く息を吐き、視線を逸らした。
「……もう遅い。寝ろ」
「まだ話は――」
「これ以上は、今は無理だ」
そう言ってコートを脱ぎ、書斎の奥へ歩み去る。
花蓮はしばらくその背中を見つめていたが、やがてメモを机に置き、静かに部屋を出た。
廊下に出ると、扉が重く閉まる音が響く。
(これが、初めての衝突……)
寝室に戻ったとき、鏡に映った自分の表情があまりにも強ばっていて、思わず目を逸らした。
外の庭は薄氷を張ったように白く、灯りがそこに落ちて淡く揺れる。
花蓮はリビングで読みかけの本を閉じた。隼人はまだ帰っていない。
最近はこの時間が当たり前になっていた。
(また氷室さんと一緒かしら)
その考えを振り払うように立ち上がり、温かいお茶を淹れ直そうとキッチンへ向かう。
ふと、廊下の奥の扉がわずかに開いているのに気づいた。隼人の書斎だ。
いつもは鍵がかかっている場所。
軽くノックをしてみたが、返事はない。
(……留守だから)
ほんの少しだけ、足が中へと踏み込んだ。
書斎は黒と深い木目で統一され、空気は静かに冷えていた。
机の上には整理された書類の束と、革のペンケース。
その隣、革トレイの上に一枚のメモ用紙があった。
淡いクリーム色の紙に、柔らかい丸みを帯びた文字。
――《明日の件、楽しみにしています。M》
花蓮の指先が震えた。
短い一文。差出人の名前はイニシャルだけ。
(……M。氷室真希の、M?)
そう思った瞬間、胸が熱くなり、視界がにじむ。
机の引き出しには他にもいくつかの封筒があり、見慣れない筆跡が並んでいた。
すべてに手を伸ばしたい衝動を必死に抑える。
そのとき、背後で低い声が落ちた。
「……何をしている」
振り向くと、扉の向こうに隼人が立っていた。
黒いコートの襟に夜気をまとい、目は冷たく光っている。
「勝手に入ったのか」
「扉が開いていたから……」
「だからと言って、許可なく入っていい理由にはならない」
低く押し殺した声。花蓮は一歩も引かずに視線を合わせた。
「このメモ……どういう意味ですか」
花蓮は紙を持ち上げる。手がわずかに震えていた。
隼人の瞳が一瞬だけ鋭く細められる。
「仕事だ」
「“楽しみにしています”が、ですか?」
「取引先との打ち合わせだ」
「なら、どうして差出人の名前がイニシャルだけなんです」
「関係ない」
短く切り捨てられ、胸の奥の何かが音を立てて割れた。
「……私には関係なくても、周りはそう思わないでしょう。もう噂になっているんです」
「噂に振り回されるのか」
「振り回されるつもりはありません。でも、あなたは何も説明しない」
「説明が必要だと思っているのか」
「ええ。だって、私は――あなたの妻ですから」
その一言に、隼人の眉間が深く寄る。
「妻なら俺を信じろ」
「信じたい。でも、あなたは私を信用していない」
「……」
「距離を置いて、何も話さない。氷室さんとばかり一緒にいて、私には背中しか見せない」
言い終わった瞬間、室内の空気がさらに冷えた。
隼人は机の角に片手を置き、低く言った。
「お前は俺を何だと思っている」
「わかりません。だから聞いているのに」
二人の視線がぶつかる。
その奥に、互いの苛立ちと、言葉にできない感情が渦巻いていた。
隼人は深く息を吐き、視線を逸らした。
「……もう遅い。寝ろ」
「まだ話は――」
「これ以上は、今は無理だ」
そう言ってコートを脱ぎ、書斎の奥へ歩み去る。
花蓮はしばらくその背中を見つめていたが、やがてメモを机に置き、静かに部屋を出た。
廊下に出ると、扉が重く閉まる音が響く。
(これが、初めての衝突……)
寝室に戻ったとき、鏡に映った自分の表情があまりにも強ばっていて、思わず目を逸らした。