「硝子越しの恋」 — 届きそうで届かない距離感が、甘く苦いオフィスラブ —
翌朝。
少し早めに出社した美咲は、まだ人の少ないフロアでパソコンを立ち上げていた。
窓の外は薄い朝靄に包まれ、隣のビルのガラスが淡く光を反射している。
「……おはようございます」
入口から低い声が響いた。振り向くと、神崎が黒いコートを片手に入ってくる。
いつもより少し柔らかい表情に見えたのは、気のせいだろうか。
「おはようございます」
美咲が立ち上がって頭を下げると、神崎はわずかに頷き、自分のデスクへ向かった。
コートを掛ける仕草まで無駄がない。朝の光が肩口をなぞり、その影が床に長く伸びた。
午前中、見積書の修正版を急ぎで作ることになった。
数値の更新と条件の変更、期日まであと一時間。
手順を確かめながら入力していたが、条件欄の入力フォーマットを間違え、システムからエラー音が鳴った。
「春川」
神崎の声が背後から飛ぶ。振り返ると、彼はすでに美咲の画面を覗き込み、マウスを手にしていた。
「ここは半角。あと、条件の順番を逆にすると自動計算が狂う」
「あ……はい、すみません」
緊張で手が冷たくなる。
神崎は修正手順を見せながら、端的に説明した。
「今のうちに慣れろ。こういうのは数こなせばできるようになる」
それは叱責ではなく、経験からくる助言のように聞こえた。
けれど美咲はうまく笑えず、小さく「はい」とだけ返す。
昼休み、同じ部署の女性社員・杉本が美咲に声をかけてきた。
整った顔立ちと華やかな身なりで、社内でも目立つ存在だ。
「春川さん、昨日の夕方、神崎課長と何か話してたでしょ?」
「えっ? ……あ、はい。業務のことで」
「ふーん……課長って、あまり新人と直接話さない人だから珍しいなって思って」
柔らかな笑みの奥に、探るような視線が潜んでいる。
美咲は曖昧に笑ってその場をやり過ごしたが、胸の奥に小さなざわめきが残った。
(……私、変な目で見られてる?)
午後、急ぎの案件が入り、神崎と美咲は同じ会議室に籠ることになった。
緊張しながらも作業を進めていると、神崎が自分の資料を美咲の方へ差し出す。
「これをベースに修正してみろ。間違えてもいいからやってみろ」
「……はい」
言われた通りに修正を試みるが、途中で数字の辻褄が合わなくなり、ペンを握る手が止まる。
「ここが違う。……ほら」
神崎はペンを取り、美咲の書いた部分をゆっくりとなぞった。
指先がほんの一瞬、美咲の手の甲に触れる。
その微かな温もりに、鼓動が一拍、強く跳ねた。
「こうすれば計算が合う。大事なのは、全体の流れを把握することだ」
真剣な横顔。眉間に刻まれた浅い皺と、ペンを持つ手の落ち着いた動き。
普段の冷たい印象とは違う、仕事に向き合う静かな熱がそこにあった。
気づけば、美咲は彼の言葉を一語も逃すまいと聞き入っていた。
夕方。作業がひと段落し、神崎は資料を束ねながら言った。
「今日はよくやった。昨日よりミスが減ったな」
「……ありがとうございます」
短い言葉なのに、胸の奥がじんわりと温まる。
きっと、褒められることなんて期待していなかったからだ。
そのとき、美咲のスマートフォンが震えた。画面には同期の佐伯からのメッセージ。
《飲み会の場所決まったから後で送る。課長も来るらしいぞ》
(……え? 神崎課長も?)
驚きと、少しの緊張が胸に広がる。
この先、彼とどんな距離を保てばいいのか——まだ答えは見つからなかった。
少し早めに出社した美咲は、まだ人の少ないフロアでパソコンを立ち上げていた。
窓の外は薄い朝靄に包まれ、隣のビルのガラスが淡く光を反射している。
「……おはようございます」
入口から低い声が響いた。振り向くと、神崎が黒いコートを片手に入ってくる。
いつもより少し柔らかい表情に見えたのは、気のせいだろうか。
「おはようございます」
美咲が立ち上がって頭を下げると、神崎はわずかに頷き、自分のデスクへ向かった。
コートを掛ける仕草まで無駄がない。朝の光が肩口をなぞり、その影が床に長く伸びた。
午前中、見積書の修正版を急ぎで作ることになった。
数値の更新と条件の変更、期日まであと一時間。
手順を確かめながら入力していたが、条件欄の入力フォーマットを間違え、システムからエラー音が鳴った。
「春川」
神崎の声が背後から飛ぶ。振り返ると、彼はすでに美咲の画面を覗き込み、マウスを手にしていた。
「ここは半角。あと、条件の順番を逆にすると自動計算が狂う」
「あ……はい、すみません」
緊張で手が冷たくなる。
神崎は修正手順を見せながら、端的に説明した。
「今のうちに慣れろ。こういうのは数こなせばできるようになる」
それは叱責ではなく、経験からくる助言のように聞こえた。
けれど美咲はうまく笑えず、小さく「はい」とだけ返す。
昼休み、同じ部署の女性社員・杉本が美咲に声をかけてきた。
整った顔立ちと華やかな身なりで、社内でも目立つ存在だ。
「春川さん、昨日の夕方、神崎課長と何か話してたでしょ?」
「えっ? ……あ、はい。業務のことで」
「ふーん……課長って、あまり新人と直接話さない人だから珍しいなって思って」
柔らかな笑みの奥に、探るような視線が潜んでいる。
美咲は曖昧に笑ってその場をやり過ごしたが、胸の奥に小さなざわめきが残った。
(……私、変な目で見られてる?)
午後、急ぎの案件が入り、神崎と美咲は同じ会議室に籠ることになった。
緊張しながらも作業を進めていると、神崎が自分の資料を美咲の方へ差し出す。
「これをベースに修正してみろ。間違えてもいいからやってみろ」
「……はい」
言われた通りに修正を試みるが、途中で数字の辻褄が合わなくなり、ペンを握る手が止まる。
「ここが違う。……ほら」
神崎はペンを取り、美咲の書いた部分をゆっくりとなぞった。
指先がほんの一瞬、美咲の手の甲に触れる。
その微かな温もりに、鼓動が一拍、強く跳ねた。
「こうすれば計算が合う。大事なのは、全体の流れを把握することだ」
真剣な横顔。眉間に刻まれた浅い皺と、ペンを持つ手の落ち着いた動き。
普段の冷たい印象とは違う、仕事に向き合う静かな熱がそこにあった。
気づけば、美咲は彼の言葉を一語も逃すまいと聞き入っていた。
夕方。作業がひと段落し、神崎は資料を束ねながら言った。
「今日はよくやった。昨日よりミスが減ったな」
「……ありがとうございます」
短い言葉なのに、胸の奥がじんわりと温まる。
きっと、褒められることなんて期待していなかったからだ。
そのとき、美咲のスマートフォンが震えた。画面には同期の佐伯からのメッセージ。
《飲み会の場所決まったから後で送る。課長も来るらしいぞ》
(……え? 神崎課長も?)
驚きと、少しの緊張が胸に広がる。
この先、彼とどんな距離を保てばいいのか——まだ答えは見つからなかった。