「硝子越しの恋」 — 届きそうで届かない距離感が、甘く苦いオフィスラブ —
 午後のフロアは、午前中の柔らかな空気が嘘のように張り詰めていた。
 取引先との契約に関する最終確認があるらしく、電話の声が一段低く、キーボードを叩く音も急き立てられたようだ。

(……やっぱり午前より緊張感がすごい)

 美咲は任された請求書のデータ入力に集中しようとした。
 しかし慣れない社内システムに加え、取引先コードの桁数を何度も間違え、入力エラーが繰り返し表示される。

「……春川」

 背後から呼ばれ、心臓が跳ねた。
 振り向くと神崎が腕を組み、美咲のモニターを覗き込んでいる。
 距離が近く、彼のスーツからわずかにシトラス系の香りが漂った。

「ここ、コードが逆だ。先頭の3桁が取引先、その後が部署コードだ」

「あ……すみません。逆に覚えてました」

「覚えてましたじゃない。入力規則はマニュアルに載ってる」

 低く厳しい声が落ちる。周囲の視線がわずかにこちらへ流れ、美咲は耳まで熱くなった。

「……はい、気をつけます」

 神崎はしばし黙った後、別のウィンドウを開き、入力手順をひとつひとつ示した。
 説明は簡潔で的確。けれど視線を合わせることはない。

「……わかりました。ありがとうございます」

 礼を言うと、神崎は何も言わずに去っていった。
 その背中に、叱られた痛みと同じくらい、言葉にならない感情が残った。

 

 夕方、突然部署全体に緊張が走った。
 進行中の契約書に不備が見つかり、至急差し替えが必要になったのだ。
 美咲の机にも関連書類が回ってきた。

「春川さん、ここの過去契約データ、すぐ出せる?」
 隣の先輩が声を掛ける。美咲は慌ててファイルを探すが、似た名前のフォルダがいくつもあり、どれが正しいのか分からない。

「……これですか?」

 差し出した瞬間、神崎の声が飛んだ。

「違う、それは二年前の案件だ。今必要なのは今年度のだ」

 鋭い視線に射抜かれ、美咲は肩をすくめた。

「す、すぐ探します!」

 必死で検索をかけ、ようやく正しいファイルを見つけ出したときには、手のひらに汗が滲んでいた。
 神崎はそれを受け取り、短く「助かった」とだけ言う。
 冷たさとは別の、落ち着いた声色だった。

 

 終業間際、机の上に一通の封筒が置かれているのに気づいた。
 開くと、中には「取引先コード一覧」と「部署コード一覧」が丁寧に印刷され、手書きで注意点が書き込まれていた。

『必ず確認してから入力。迷ったらすぐ聞け』

 字は整っていて、どこか硬い。
 差出人は書かれていないが、美咲には分かっていた。

(……やっぱり、優しい人だ)

 でも同時に、昼間の冷たい声が思い出され、胸がちくりと痛む。
 優しいのか、突き放しているのか。距離の測り方が分からない。

 ガラス窓の外には、夜の街がきらめき始めていた。
 パソコンをシャットダウンしながら、美咲はふと視線を上げる。
 向こうのデスクで資料を読み込む神崎が、ふとこちらに目を向けた。
 ほんの一瞬——けれど、その視線は確かに温かかった。

(……もしかして、私のこと見てた?)

 答えは分からないまま、美咲は胸の奥の熱を抱えて帰路についた。
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